見出し画像

「仕事もできるしね。間違いなく良い旦那さん」と言われたら僕は大喜びである

○○ロスから僕は無縁だと思ってたんだ。
ホマキも石原さとみもガッキーも結婚を心から祝福した。ロスを受けている人はそもそも自分が結婚できる相手でもないのに何を期待してんだと僕は斜に構えていた。
しかしその時が初めて訪れた。
三代目 J SOUL氏と破局した報道をみて僕は油断していたんだ。なんとも意表をつかれたもんだ。「カトパン」の結婚にロスを受けて今、僕は途方に暮れている。

導火線が短い人間関係

よく世間では、ママ友や姑は些細なことがきっかけで喧嘩になると言われている。関係性がよくない間柄ではお互いが常にあら探しをしているからだ。
たしかに言うべき場面ではズバッと切り返すことも時には必要ではあるが、毎度のようにイラつく相手へ反撃をしていては身が持たない。 怒る理由を探しながら生活すると怒るのが癖になってしまうのだ。

その結果「聞いてない」、「味付けがおかしい」、「自慢話ばかりする」、「皮肉に聞こえた」みたいな、傍観者からするとそれほど重要ではない些細な出来事から大喧嘩に発展してしまうことがよくある。こういった場合に聞き手が身内の旦那であれば無関心と評され、確かにそれも一理あるが、多くは当事者同士の距離感における過去の因縁といった背景が引き金になっている。

2020年のカレンダーが30年の絆を切り裂いた

僕の身近な知り合いに離婚寸前でもはや修復不可能な状態に陥った夫婦がある。
20歳前半に結婚し子どもは二人。二世帯住居で約30年連れ添った。

旦那側の父親が菓子製造業の創業者で未だに経営者且つ職人で、旦那が二代目である。事業は製造から販売に至るまで家内工業で、奥様は名古屋から嫁いで家事だけでなく仕事の手伝いもしていた。僕は奥様のことをリスペクトしていた。
昔の人は皆そうだと言うかもしれないが、皆がそうでなくなった時代だからこそ過酷さは増すもので、青く見える芝生が多かったはずだ。

30年間、義理親の下でプライベートから仕事に至るまで常に一緒で苦労もあっただろうが、子どもが大学を卒業し就職するまで立派に育てあげてここまできたのだから幸せな家族・夫婦なんだろうなと思っていた。

しかしカレンダーが30年の絆を引き裂いた。
2019年の年末のこと。奥様は支払いの手続きに会社のメインバンクへ行った。そこで翌年のカレンダーをもらったのだ。地方銀行からすれば、家内工業といえども大切なお得意先様である。年末挨拶の気持ちでノベルティのカレンダーを渡したのだろう。

カレンダーを家に持ち帰ると、姑が「なんで既にたくさんあるのに貰ってきたの?」「うちなんかが貰うより、他の人が貰った方が有効活用できる」「どこに飾るの?」と小言が始まった。奥様は「いらないのなら捨てたらいい」と主張したが、お互い日頃のうっぷんがたまっていたのだろう。これをきっかけに大喧嘩に発展した。結局、「カレンダーを返してくる」ということでその事象自体は収束したが、当人の気持ちは収まるはずもない。

年末の実家帰省をきっかけにして戻ってこなくなった。旦那さんは奥様側を味方し、話し合いは何度もあったようだが今も尚、関係は修復不可能な深刻さを極め、離婚は決定的な状況になっている。

この話を聞いた時、僕たち傍観者の多くは「こんなことで何で?」「30年間も耐えてきたのに?」と思う。しかし当事者は「こんなことまで言われる筋合いはない」「30年間耐えてきたからもう限界」という気持ちであろう。
お互いに不信感を抱いている状態では「スルー力」がなくなって30年の絆をも引き裂くほどの爆弾を抱えている状態なのだ。

今のインターネット環境は他人へのスルー力が低くなっている

「カトパンロス」の激震が走った僕は「そもそも僕が結婚できる相手じゃなかったから」と、悲しみの感情を一刻も早く現実に引き戻すため関連するニュースを片っ端から見ていった。
そこで一つだけパッと見では理解ができないニュースがあった。

どこが問題なのか最初は分からなかった。

「料理もうまいしね、間違いなくいい奥さんになる」ってところだろう。
たしかに「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」と男女が一般化されて語られてきた世界ではありがちな表現だが、今どきの感覚からみると前時代的だということだろう。

しかしこんなことに噛み付いてわざわざ批判する必要があるのだろうか。
「女を家政婦みたいに扱う男はクソ」「公共の電波でアナウンサーが偏向的なコメントをするな」ということだろう。
この程度のこと、自分に関係ないのだからと「スルー」することはできないのだろうか。

この言葉をみる限り少なくとも「カトパン」は嫌な思いをしていないはずである。「料理もうまい」は本当のことだろうし褒め言葉である。また結婚するので「奥さん」になることは正しい。それを褒め形容詞をつけて「良い奥さん」としているのだ。「料理もうまいし」「良い奥さん」という言葉の並びから勝手に家政婦のように結びつけたり、「料理がうまくない」奥さんは「良い奥さんではない」と拡大解釈しているのは批判側である。

また、この程度のコメントに対して仮に「アナウンサーとして偏向表現であり不適切」と批判する人がいれば、今の時代にアナウンサーが「元同僚を自身の言葉で祝福するコメントをするべきでない」という貴方自身こそ「アナウンサーはこうあるべき」という傲慢な考え方をもっていることを自覚しなければならない。

中毒者に対してはスルーしかない。

最近のインターネットの環境は些細なことで炎上しすぎだ。
何か道徳的に問題がある企業や芸能人またはインフルエンサーに謝罪を求め、発言を撤回させ、活動停止に追い込む。彼ら彼女らはよく「正義中毒者」と揶揄される。言い得て妙で、「中毒」という表現が一番しっくりくる。 彼らは既に中毒になっているのだ。「炎上の火」を発火させることで気持ちよくなり「正義を行使する」ことに快感を感じてドーパミンが過剰に分泌される。彼ら彼女らにとって正しい道を指南して、それがみんなに「いいね」され、拡散される。こんなに気持ちの良いことはないのだ。

既にもう、僕たちが望もうと望まないと他者に監視され続ける世の中になった。なんでも些細なことがSNSにアップされ、批判にさらされやすい。
そうやって監視が続くとどんな人も表舞台に立ったら「他者から見て模範的な人間であろう」としてしまう。 noteだってそうだ。常に誤解を与えないように言葉を取捨選択しなければならない。

しかし僕は、他者の視線や他者の評価にかかわらず、自分がすべきと思ったことを発信することに躊躇してはならないと思っている。
模範的で画一的な社会からは何かを変えるチャレンジは生まれてこない。

発言や作品に対する肯定・否定は受け入れる。読み手の感想は自由である。
しかし誹謗中傷であればスルーである。
「炎上家による炎上」もひたすらスルーなのだ。相手はママ友でも姑でもない。中毒者である。中毒者相手に喧嘩するのは限りある時間で無駄な時間である。

noteのクリエイターに捧ぐ。共に批判を恐れずに良いと思ったことは発信し続けようではないか。それこそが新しいコミュニティを作り、新しい発想を生み、新しい文化を創造する唯一の方法なのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?