#1【難病と向き合う記録と記憶】 大好きな母がALSになって「今を生きる」を痛感した
77歳の母がALSになった。
国の難病に指定されている病気だ。
診断されてから知ったことばかり。これまでいかに自分が無知であったか。まさか身内が難病になるなんて思わず、どこか人ごとだったことを痛感している。
これまで元気だった母にまさかの余命宣告。離れて暮らす45歳の娘の私が何を感じ、何ができるかを考えた現実を記録しておきたいと強く思った。
同時に、稀かもしれないがもし同じ病気に罹患した人やそのご家族が「生の情報を知りたい」と願った時に例として参考にしてもらえるものが残せたらと思う。私にできるささやかな「未来のためにできること」だと信じて。
1000字にまとめた超要約版はこちらです。
ALSとは
筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気だ。
患者数は緩やかな増加傾向にあり、令和2年のデータによると、日本国内での患者数は10,514人とのこと。
世代別に見ると、50〜60代の男性、60代の女性が多く、母の世代(70代)は100人ほどである。
ちなみに、健康上の問題で日常生活に制限のない期間(健康寿命)は、令和元年時点で男性が72.68年、女性が75.38年と言われているため、何があってもおかしくない年齢ではあるが、70代後半でのALS罹患はめずらしいと言えそうだ。
父は81歳だが、幸い健康寿命を10歳も超えて元気に過ごしている。元気ではいるが、それは自分の世話に対して問題なくできるという意味であって、母の介護をひとりで担えるほど元気かというとたぶん怪しい。
老老介護になることも気がかりの1つだ。
ALSと診断される前の予兆
母の暮らす大阪には、年に2回ほど帰省する。
2023年11月に高校の同窓会への出席を兼ねて帰省した際は、なんともなかった。いつものように美味しい手料理を振る舞ってくれて、服のお直し(母は洋裁が得意である)をしてもらい、デパートへ買い物にも出かけた。
多少の体力の低下はあってもそれは年相応であり、また旅行でも一緒に行きたいね、なんて話もしていた。
私は鹿児島で暮らしているので帰省は年に2回ほどだが、週に2〜3度は実家に電話をして生存確認や近況報告をしている。
年が明けて年度末のバタバタが片付いた頃、電話の様子がいつもと違った。
電話口の声が「おばあちゃん」なのだ。
これまで話していたスピードの半分以下で、まるで入れ歯が口の中で邪魔をしてしゃべりづらそうな感じで話すのだ。
この間までは普通に喋っていたのに、浦島太郎のような老け具合(と書いていいものかどうか)で、信じられなくて混乱した。
父によると、歯医者に行った時に顎を大きく開けなければいけなくて、その際に噛み合わせがおかしくなり「|顎関節症《がくかんせつしょう》」ではないかと疑っている、とのことだった。
この時は、まあまあ老齢になればそんなこともあるよな、くらいに思っていた。私も、きっと両親も。
電話で違和感を感じた現象は今年5月に帰省した際にも同様に見られ、やはり何か症状があるのだろうと理解した。薬を飲むのにも苦労するという話を聞くと、なんとかならないものかと思案するが、私には何もできない。
唯一、安心したことと言えば、料理が美味しかったこと。腕や味覚は鈍っていない。早く原因がわかって、自由に話せるようになってほしいと願いながら、鹿児島に戻った。
食べづらい、話しづらい、人と会いたくない
食べることも、話すことも、人と会うことも大好きな社交的な母が、飲み込むのが辛く、下が回らずうまく話せないこともあり、すっかり人と会わなくなってしまった。
思い出すのは父のこと。
父も社交的な人で、趣味の水彩画や英会話、ゴルフなど楽しんでいた。しかしコロナが流行し行動制限されてしまってからは自宅軟禁状態となり、すっかり身体も心も弱ってしまった。当時77歳。
2021年4月に帰省した際、父は「呼吸が苦しい」「足が痺れて動けない」とSOSを出し、意識朦朧としたなか救急車で運ばれるということがあった。
病院まで5分の距離だが、夜の10時ごろ母と2人で救急車に乗り込み、「もうこれが最後かもしれない」と覚悟したことは今でも覚えている。
結局、元気を取り戻し(あれは何だったのか、、、)、今では水彩画家TAKAとして本領発揮している。
そんなこともあったので、自分らしく生活ができないことで、心身がひどく弱ってしまうということが身に染みているのだ。
検査入院で徹底的に調べた結果
そんな過去を振り返り一喜一憂する間も、母の飲み込みづらさやしゃべりづらさは改善することなくむしろ悪化していく。固形のものはあまり食べられずお粥が中心だが、この数ヶ月で3キロ痩せたそうだ。
口腔外科でも原因がわからず、2週間の検査入院で徹底的に調べることになった。検査入院には立ち会えなかったが、父からの報告をまった。
この時点で、初期症状が現れてからすでに8ヶ月が経過している。
退院後、父に電話をして様子を聞いたが、9月に鹿児島に来る予定があるのでその時に話す、と言われていた。
急いで話すほどではなかったということかなと理解した。
しかし違っていた。
退院から10日ほど経ち、父から電話がかかってきた。22時。もう寝ようとしていた頃だった。
そんな言葉から始まった。
人というのは直感や予感が働くもので、ああ、これは大変なことなんだな、と分かり眠気が吹っ飛んだ。
ALS。
言葉は知っていた。車椅子やベッドで寝た状態で、手足が動かないため視線で文字を打って会話をする、といった様子をニュースで見たことがあった。
ALSと診断されて最初の反応
わっ!と驚くでもなく、ガーンとショックを受けるでもなく、「ああ、そういう病気だったんだ」と、ただ事実を受け止める感じだった。
そこから2時間あらゆる考えごとをしていて、眠りについたのは24時を回った後だった。
翌朝からはこの後に書く通り、母の病気について考える時間、悲しみや不安に飲み込まれる時間が多くを占めることとなる。
どれが先というわけではないけれど、主に3つの感情・行動が現れた。
気を抜くと涙が流れてくるので、できるだけ理性的に、建設的に、この病気と向き合う(向き合うのは母だが)ことが娘の私にできることだと思い、そのためにも書き記している。
本人と家族とでは温度差がある
余命を伴うような病気と言えば、「がん」も身近な病気だが、私は2019年9月に甲状腺がんの手術をしている。甲状腺乳頭がんは命に関わる可能性は少ないが、気管に巻きついている神経を傷つけてしまうと声を失うリスクもある少々やっかいながんである。
この診断を受けた時、私以上にショックを受けたのが夫だった。
私は意外と「ああ、そうか」という感じだった。声を失えば、執筆で生きていくしかない。これでやっと作家になれる!と前向きな気持ちすらあった。
がん保険に入っていたこともあり、それを活用できる機会が来た!とむしろチャンス到来とばかりに息巻いていたのが私だ。
手術の説明の際に両親が鹿児島に来てくれたが、きっとその時も親は気が気じゃなかったと思う。本当に心配をかけて申し訳なかったが、後遺症もなく服薬もなく、5年経ってもピンピンしている娘の姿を見せられていて良かったと心から思う。
さて、これからどうするか、どうなるのか。
悲しみに暮れても、楽観的に過ごしても、時間は経つ。カウントダウンは始まっているのだ。
父からの電話を受けて生じた感情と行動について、1つずつ紐解いていくことにする。
①悲しみや混乱、今後どうなっていくかの不安
ー悲しみや不安にどう向き合うか
心理学を学び、コーチング技術やカウンセリング技術を身につけているため、自分を整えること、感情をコントロールすることには長けているはず。
だがしかし、なかなかうまくはいかないものだ。
夫や信頼できる友人、コーチに話を聞いてもらい、感情と思考とをなだめていく。
両親の死に対する心の受け入れ準備ができていないことは、前々から悩みの1つだった。大好きな両親、とても仲良くしている両親がいなくなることへの恐怖や喪失感に、自分が耐えられる気がしなかった。
年末には喪中葉書が届く今日このごろ。この歳になると、70代80代の両親を見送る同級生も多い。頭では分かっていること。だが心の準備はいつまで経ってもできないでいた。
母は治らない病気ではあるけれども、徐々に身体の機能が奪われていくため、急な死(喪失)ではない。それは死を恐れる私にとって良かったのか悪かったのか。
正解があるわけではないが、今こうして母の余命を告げられたことで、「生きること」「死ぬこと」について考えることができたことは、なかなか煮え切らない私への天からのギフトかもしれない。
ー人生計画の変更にどう向き合うか
自分の生活がどうなっていくかについて。
夫婦で海外移住を、と考えていた計画は無期限延期となる。
親ひとりで私がこんな状態だとしたら、父、義理の両親を見送るまでは日本を離れられないと判断した。
ただし、両親は大阪、義理の両親は関東に住んでいるため、鹿児島に居ながらケアを行うには限りがある。そこをどう考えるか、行動するか。
今のところどれだけ私の手が必要となるかわからないため、仕事や生活がどのように変化していくかは想像の枠を出ない。
想像の精度を高めたり、行動の選択をしやすくするためにも、情報収集が重要だと思った。
介護に従事するとなると仕事とのトレードオフとなる。会社員ではないので介護休暇があるわけでもない。スケジュールの自由は効くが、休んだ分だけ収入は得られるなくなる。
これはフリーランスの特権でもありリスクでもある。
何を優先するか考えて選ぶ。介護に費やす時間は未来永劫ではない。仕事はまたいつでもできる。理解してくれるお客様もたくさんいる。応援してくれる友人もいる。
思い切ってセブ島に行った6ヶ月だって、大きな糧となったではないか。
これから先、長くて2年、大好きな母と、母を支える父と、私を支えてくれる夫と共に、「生きること」「死ぬこと」に向き合う経験は、私をきっと成長させてくれる。
大丈夫。乗り越えられる。
私には言葉がある。そして、支えてくれる人がいる。
②ALSについて知るためにネット検索や書店めぐり
ーネットで得られる情報
翌日すぐに取り掛かったのは、「ALS」の情報を集めること。
ネットで検索したが、公的機関が出している情報、協会の情報、どれを見ても同じようなことが書かれている。知りたいのはもちろん医学的な情報もだが、当事者や家族がどのような対応や判断を迫られて、どのように過ごしていくかの方だ。
そこでnoteで検索したら、ご自身のALSについて書かれたものや、今まさに親御さんの介護をされている方のもの、介護を経て見送った経験談などが出てきて、とにかく読み漁った。
YouTubeでも発信している方もいて、動画も見させていただいた。
こちらの皆様は、比較的高齢な方の事例。
印象的としては50代前後の若い方の情報が多く(ボリュームゾーン)、70代後半の事例は少ない。おそらくこの年代になるとALS発症より前に、他の病気で衰えていくケースが多いのかもしれない。
ー教科書的な1冊
私が書店をめぐって参考になりそうな本を探している間にもすぐに、父から1冊の本が届いた。
『ALSケアガイドーALSと告知された患者・家族に最初に手にとってほしい本』だ。
一般社団法人日本ALS協会が出版しており、診断されてから治療・療養の方法までが分かりやすく記されてある。
書店に行っても、ALSど真ん中の本は少ない。神経系の障害に関する本だといくつかあった。どれも難しかったり分厚かったりで選びづらかったが、今一番の母の悩みである「|嚥下障害《えんげ障害》」に関する本を買って、父に送った。
ネットでも本でも書いてあることとして、まだ実感はないが、いくつか決断をする場面があることと、要介護状態になることとを理解できた。
私はできるだけ母の意思を尊重したいし、側にいる父が少しでも楽にいられる方法を探したい。公的支援がどれだけ受けられるかにより父の負担は変わってくるので、その結果次第で私がサポートする範囲も変わってくる。
先に書いた人生計画の変更は、変更されることは確実だがどのように変更されていくかは分からない、という居心地の悪さがある。
いずれにしても両親や夫とよく話をして、後悔のない時間を過ごしていきたい。
こちらはALSとは関係ないが、老老介護となる両親のサポートになれることはないかを知るために手にした本。著者の坪田康佑さんは看護師さんなので、ケアする人、される人のどちらの立場にも立って分かりやすく解説してくれている。備えあれば憂いなしと思えて少しホッとした。
『老老介護で知っておきたいことのすべて 幸せな介護の入門書』(アスコム)
③今後の方針を話し合い、あらゆる可能性を検討
ー敵を知る
とにもかくにも、一度、母に会って話をしたり、医師の説明を聞いたりしないことには何も決められないのだが、考えうる選択肢は準備しておきたい。
ALSの症状は主に<下から><上から><四肢から><口から>のどれかからの進行となる。
つまずいて転ぶことが多くなり、ただの足の疲れかと思ってマッサージに行っていたら次第に動かなくなりALSと診断されたというケースもあれば、指が動かなくなり、、、のようなケースもある。
母の場合は、<上から><口から>だ。
ALSの診断は、「○○が原因なのでALSです」ではなく、「○○が原因ではないのでA(病名)ではないです」「○○が原因ではないのでB(病名)ではないです」という風に1つずつ可能性を消していって、消去法でたどり着く病名のようだ。
だから難病に指定されている。
最近では何が原因かの分析が進んだり、治験薬が申請されたり、昔よりは対応方法が増えているようだが、「これをやれば治ります」という方法はない。何より進行が速い点も人を絶望に追い込む要因となっている。
食べられなくなり衰弱することや、つばや痰が絡んで呼吸停止することなどが一番怖い。そのための措置が、胃ろうと呼ばれる胃に穴をあけて栄養を入れる方法や、呼吸器をつけるために気管切開する方法などである。
メリットとデメリットを比較して、心からの選択ができますようにと願う。
ー制度を知る
これについてはこれからだし、すでに父が念入りに調べあげて、できる手続きは進めているように思う。マメな父で良かった。
介護保険や障害者手帳、母のケースがどのように判断されるかは分からない。年金受給の額にもよるだろうし、手足が動くならば介護度は低いと判断されるかもしれない。しかしいつ呼吸が止まるやもしれない難病なので、できる限りの支援が受けられたらと思う。
少しでも知識があったなら良かったのにと悔やむばかり。
これまで人材育成研修で介護施設のスタッフさんと接することはあったが、業務の詳細にまで介入することはなかった。命を預かる現場で働く皆様に心より感謝を伝えたい。
ー今こそワークライフバランス
人生計画の変更のところで書いた通り、フリーランスの特権はスケジュールの自由が効くこと。夫の理解が得られればいくらでも実家にいることができる。ただ、それを両親が求めているかどうかも確認しなくてはいけない。
これまでは実家に帰れば上げ膳据え膳で母に甘えっぱなしだったが、そうはいかない。私がいることで助かる面と、重荷に感じる面があるだろう。
介護する方もされる方もなるべく負担が少ないように、家族会議でしっかり話をしたいと思う。
これまで海外移住を考えていたこともあり、ここ数年はオンラインでできる仕事を増やしてきた。まだまだ完全移行にはならないし、リアルでやる意味のある仕事も多い。
母の余命が告げられた今、この数年をどう過ごすかはとても重要なことは分かっている。かといって24時間、母のそばにいられる訳でもないし、母もそれを望んでいないと思う。
第一、仕事をストップすれば収入もストップする。
ワークライフバランスという言葉が、これまで理解していた意味とは1段階違う深さで、私の人生に入り込んできた。
何かを犠牲にすることなく、望む世界を実現する。
身近な人の介護や死をこれまで経験してこなかった私にとって、これから出逢う出来事はすべて「初めまして」だ。
何かを犠牲にすることなく、望む世界を実現する。
現実的にそんなことができるのかは分からない。「理想だよ」と言われるかもしれない。
それでも私は、母が自分の命をつかって教えてくれようとしている「生きること」「死ぬこと」と出逢っていく。願わくば胸を張って。上を向いて。
それが、未来のために今できることだから。
つづく。
(初稿執筆日:2024年8月15日)