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満月と柔軟剤

 今夜の月は、煌々としていた。夜道を歩く誰も彼もが、靴の裏に濃い影をくっつけていた。
 当の月はつまらなさそうに、雲の下の街を見下ろしていた。月はいつも、何にも興味がなさそうな顔で夜空に浮かんでいる。その冷え冷えとした眼差しが、地表の温度を奪っていくようだった。月は、自分が誰からも、何からも心を動かされないことを誇りに思っていた。その冷ややかなふるまいこそが、夜の女王であり、羽虫の女王たるものにふさわしいと信じている。
 彼女の湧きあふれる冷静さは、鏡のように澄んでいて、人間を少し狂わせる。それを、「月的狂気」と人は呼んだ。だから私たちは、月の下で日向ぼっこまがいのことをしないだろう。少しずつ、細胞の一つ一つが軋んでいくのを身体が知っているからだ。
 見上げる者も、美しさを称える声もない、宵の更け。月はふと、何かとてもよい香りが夜風に運ばれてくるのを見つけた。可憐なのに落ち着いた、想い人を静かに待つ花のような……こんな夜更けにふさわしい……。月はそのかすかな香りにぴったりとはまる言葉を探して悩んだ。そして、この香りの出どころを訪ねたい、と思った。
 そう思ったところで、はっと考え直した。女王たるものが、心赴くままに行動するなど、あってはならぬことではないか。月は辺りを見回した。今日は月がまぶしいので、星たちは静まり返っている。その星々のあいだを香りは細々と、しかし途切れることなく夜空にただよう。
 月は横目で、そっと香りの出どころを探った。大っぴらにきょろきょろと探すことが恥ずかしかったのだ。
 果たしてその香りをたどった先にいたのは、ひとりの少女だった。風呂上がりのしっとりと濡れた髪を、夜風に遊ばせながら、鼻歌交じりに洗濯物を干している。この芳しい香りは、その洗濯物から流れてきているのだった。
 月は、この自分を惹きつける香りが、特別な草花でないことに仰天した。そしてその事実にますます興味をひかれた。少女は、物干竿に干した洗濯物のしわを伸ばしながら、今宵のまぶしい月を見上げた。その微笑みは月を地上へ引き寄せるのに充分だった。

 夜の挨拶をしたのは、少女の方が先だった。
「こんばんは、良い夜ですね。」
 月は何と返事したらいいのか分からない。言葉は知っているけれど、それは月にとって慣れ合うためのものではなかった。少女と対等に言葉を交わすことが、正しいことなのか月には分からない。それで、少女の挨拶に頷くこともしないで、黙っていた。黙っていると、木々の葉がこすれる音、草のささやきが聞こえてきた。ここは月にとって、空のただなかより騒がしく感じられた。けれど遠いさざ波を聞くような、心地よい騒がしさだった。
 少女は月が黙っているので、自分も黙っていることにした。少女は沈黙を好んだ。確かに、こんな可惜夜に言葉は必要ではないと思って、しげしげと月の表面を眺めていた。月の表面は、遠くから見るよりでこぼこしていたが、なめらかそうだった。潔癖そうな雪白色のなかに、かすかな温かみを感じる色を宿している。ふと触れてみたくなって手を伸ばすと、意外にも月は伸ばされた手に反応を示さなかった。
 不思議な温度だった。柔らかな冷たさ、その奥の方に熱を感じた。
 洗濯物からたなびく良い香りに、月はうっとりとしていた。少女はそれ以上口を開くことはなかったし、月も話す必要はなかった。
 地表から見る夜空はゆっくりと流れていった。

 やがて東の空からスピカが顔を出したころ、月がゆっくりと空へ昇りはじめた。夜風に惑わされることなく、真っすぐ空へ南中していく。遠くなるにも関わらず、月の明るさは衰えることはなく、むしろその気高い輝きを増していった。少女の体に障ることがないように、月は自ら黒いベールをまとっていたのだった。
 少女は声もなく月を見送った。月が空へ戻っていくとき、満足そうな表情をしていたのに気づいている。それを気取られないように、月は空へ帰ると元のつまらなさそうな表情を作り直した。

 それから月は、たびたび少女のもとを訪れては、洗濯物が規則正しく竿に干されていくのを眺めて、その香りに揺られていた。
 三日月の日にはその曲線に少女を乗せて夜空を回遊し、あの高飛車な月が人を乗せている、と星たちは驚いた。

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