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はるみぞれと夏の少年 第2話―花を摘む―

 「夏」は人格を持つか。

 私と同じ言葉を交わしてくれるだろうか、と不安に期待を混ぜたような気分を感じる。「夏」は暑いのだという。春霙(はるみぞれ)は、暑いという感覚にぴたりと当てはまるようなものを自分の中に見出すことはできなかった。けれど件の「夏」の本から、それが暖かさを何層にも重ねたものだろうと見当をつけていた。
 「夏」はどちらにいるだろうか。その問いに春霙はおおよその答えを用意した。風の来たる方へ。春霙は裏山の稜線を見つめた。

 春霙はさっそく旅立つ準備を始めた。屋敷の物置から、ずっと使ってみたかった革のトランクを引っ張り出してきた。どこか遠くへ行くときは、これに連れて行ってもらおうと思っていた。少しほこりを被っているが、梅の樹皮の色をした立派なトランクだ。
 トランクを持ったまま、ショールを肩に引っ掛けて春霙は庭に出た。そこは「庭」と呼ぶには若干自由過ぎる場所だ。春霙は一切の手を庭には加えず、芽吹くものの好きにさせている。降りそそぐ陽光に春霙はぎゅっと顔をしかめる。空にはぽってりとした羊を思わせる雲が浮かび、風は少し肌寒い。春霙はトランクを開けるとき、くしゃみを一つした。
 春霙は、庭や小川の岸辺に咲く花を、丁寧に手折りながらトランクへ詰めていった。一つの花を取り過ぎないように、できるだけたくさんの種類の花を詰めた。淡い紅色の春紫苑(はるじおん)。紫がかった酢漿草(かたばみ)。ぬけるような白の蕺草(どくだみ)はあまり入れずに、白詰草(しろつめくさ)と、瑠璃唐草(るりからぐさ)は両手にいっぱい入れた。沈丁花をトランクに詰めた春霙は、その前で何度も深呼吸した。山吹の枝に射干(しゃが)を添えて、その上に桜の花弁を散らした。
 やがて溢れそうなほどいっぱいになったトランクを見て、春霙は満足そうにほほえむ。まだ見ぬ「夏」へ、お土産にしようと考えている。春霙はトランクを優しく閉じると、その側面を何度も撫でた。そうしてトランクに、穏やかな気迫が満ちるのを感じると、春霙は安心してトランクを離れた。
 一旦屋敷へ戻った春霙は、お気に入りのリュックに「夏」の書かれた本を入れた。未完のまま作者の手を離れた不憫な本。ここにはない日照りと、生命の盛りを、これほどまでに巧みに描けるのは、きっと「夏」のまんなかにいる者だ。これを元の場所へ還して、可能ならば十全のそれを余すことなく心ゆくまで読み尽くしたい。そんな下心と共に、春霙はぶ厚い「夏」を背負った。

 春霙は屋敷中の窓を閉めると、トランクを持ち、最後に玄関の鍵を閉じた。そして木漏れ日の静かに降る森へと歩き出した。森を抜けた先にある、小さな赤い屋根の駅を目指して。

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