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勿忘草の言葉

 言葉の海は、空の上にある。
  何かと何かの間に交わされた言葉は、音となって空へ昇り、込められた意味が結晶して花びらの形を成す。
 やがて花びらは高度を上げていくにつれて浅い青紫に染まり、空のある一層で上昇を停止、そこで浮かぶのだと言う。地上から昇った言葉は、積乱雲を飛び越え、巻雲よりももっと高い場所で花びらの海を作る。地平まで広がる、勿忘草色の海だ。
 よく晴れた春の日、雲一つない空の南中を見上げると、うっすらと紫がかって見えることがある。それが言葉の海だ。
 海はあまりにも高い所にあるため、この世界でたった一つの例外を除いて、その海に指先を遊ばせることはできないだろう。
「その例外って、何。」
 この街からずっと東に、高い塔がある。とてもとても高い塔だ。その頂点は地上から仰ぎ見ることは不可能で、その姿は空を支える柱、あるいは地上と天をかろうじて繋ぐ橋のようだった。
 いつから存在していたのか、誰が作ったものなのか、問いかける人はいなかった。誰からも認識されているにも関わらず、奇妙に存在感のない建造物。この世界でたった一つ、言葉の海を上から眺望することができる高い塔。
 塔は言葉の海をつきぬけて、さらに高い場所へと続く。

 クラスに遠い場所から転校生がやってきた。色の白い男の子で、薄青の瞳をしていた。彼は、放課後の図書館の隅で、こっそり私に教えてくれた。
「僕は、あの塔からやってきた。」
 私はその言葉に妙に納得したのだ。彼の瞳が、記録にしか残っていないような薄い色であることが、私にそうさせたのだろうか。おそらくそれは違う。彼の仕草は、視線は、私が信じようが信じまいがどうでもいい、と語っていた。
「私の言葉も、花になるかな。」
 彼は頷いた。語り掛けられた言葉は、発話者と何ものかの間で意味を持ち、すべての言葉は、どれほど残酷で汚い言葉であっても同じ勿忘草色の花びらになると彼は言った。

 彼の眺め続けた言葉の海に、色名をつけたのは私だ。
「僕の目と同じ色をしている。」
 彼は海の色を説明するとき、こういう言い回しを使っていた。
 彼には、結局本当の海を見せることも、勿忘草を見せることも叶わなかった。海は君の目より深い藍色をしていて、勿忘草は悲し気に風に揺れること、彼はほとんど何も知らずに、いつの間にか再び転校していた。
 ああ、きっと塔へ帰ったのだ。私は根拠もなく、けれど確信してそう思った。塔は依然としてその細い体で空を支えながら、どこかはっきりとした輪郭を持ったように感じられた。
 クラスメイト達は、彼がいなくなったことにようやく気づき始めたようで、しきりに噂話や憶測がささやかれていた。
 放課後、夕暮れの空を見上げて花の海を探そうとした。ふと、塔の上から見る夕焼けはどんな具合に輝いているのだろうと思って、
「そっちの夕焼けはどうですか。」
と、仰ぎながら問いかける。応えはもちろんない。
「見てみたいなあ。」
 彼は、言葉が花弁の形をとるのは、言葉に込められた意味が結晶するからだと言った。意味は何かと何かの間にのみ発生して、意味のない言葉は生まれ得ない、と。
 彼に語り掛けた私の言葉は、花びらになるのだろうか。たった今、ゆっくりと空へ昇っているのだろうか。そしたら、彼のいる場所まで届くのだろうか。
「これ、独り言じゃないよ。」
 そう付け足してみた。この言葉が届いたとき、ちゃんと意味を見出して、この言葉を花びらにしてあげてほしい、と小さく思った。

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