見出し画像

水辺の妖精

 水辺にすむ妖精は、人間のことを愛していた。
 妖精の姿を目にした人間の一番初めの、浅い呼吸より儚い刹那が好きだった。愛しいその双眸に妖精が黒く映ったとき、誰もかれもが恋に落ちたときのように、剥きだしの心を浮かべるからだ。衝動と動揺と可憐な期待で滅茶苦茶になった表情。
 彼らの心を柔らかな激情で搔き乱すこの顔は、どんな風に見えているのだろう。妖精は己の滑らかな頬を指でなぞる。妖精の顔は、見るものによって形を変える面妖なものだ。人間がその相貌に心突き動かされるのは、それが見る者にとって最も美しく思う人間の形をとるからであった。深い心の底に沈めた偶像が、同じ体温をまとってこちらへと微笑みかけている。そのことに平静を保てる者はいなかった。

 明るい半月が、空の底まで昇っていく。道行く人の形はとらえることができても、その表情まではうかがい知ることができない。良い夜だった。梅雨入り前の空気は夜が流していく。
 コンクリートで固められ、整えられた静かな水辺で、妖精は堤防に腰を下ろして足を投げ出していた。そうしていながら、たいして懐かしいとも感じない同胞たちのことを思い出していた。未だ手つかずの豊かな湿地を求めてこの場所を去ったのは、一人や二人ではない。妖精としての誇りが、頑固さになるまで凝り固まった憐れな同胞。そんな場所求めてどうするのだろう。彼らは分け合うことが下手だから、きっとすぐに争いがおこる。行きたい場所まで行ける手足があるのも、不便なものだねえと温いコンクリートから生える浜菅を撫でる。地面を割る植物は依然として涼しげで寛容なのに。命をつなぎ守ることに必死で、いつもなにか忘れそうになっている動物は、いつまでも愛おしいのにね。
 月光に揺れ輝く川面に、軽やかな足音が響いてくる。切れた街灯の下を、息を切らした少年が走ってきた。月の明るさも、夜の静けさに通る電車の音にも耳を貸さないで、足元だけを見ている。まだ幼い体を鍛えることをのみを心頭においた眼差しは、堤防に腰掛ける妖精のことなど映さないかに見えた。しかし妖精は確信していた、あの少年は私の視線に必ず気づく。なぜならその瞳は若く、透明でいて、まだ人生というものが元来苦しいものであるということを悟っていないからである。言葉にできない猜疑を、少年が自覚することはないだろう。さあこっちを向いてごらん。妖精は冷えるような笑みを浮かべる。
 少年の秩序だった軽快な足音は、妖精の前を通り過ぎるすんでの所で大きく乱れた。勢いを無理やり殺して、少年の体は前のめりになって止まった。そして振り返った少年の目は奪われる。大切な心、柔らかい心、誰もが持っていながら年の重なりに深くへしまってしまうもの。この街の人間は、それが表層近くまで浮かんでくることを酷く嫌っていた。だがどうだろう、白い頬に染みでた紅潮は。短く飲みこんだ青い息。潤んでいく瞳は、月を飼っている。薄く開いた唇から、形のない言葉が居場所を探して彷徨っている。
 妖精の傾けた首、桜の咲くなだらかな丘のような微笑み。少年の表情は、抉り出された心そのものを映し出していた。妖精の最も愛している表情だった。震える唇は、名前を呼ぼうとする。この世でたった一人の美しい顔に、この幼子はなんて名前を付けて呼んでくれるのだろう。眩暈がする美しさに、時間は重くなり歩みを緩める。月明りは少年の影を地面に縫い付けて離さない。
 少年は言葉より先に涙をこぼした。後を追うようにして涙にのせられた声は、
「お母さん。」
という嗄れた小さな呟きだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?