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湯屋に詠う-おふろの王様 大井町店-

打刻時間19時01分。

本日も定時で退勤。終業10分前からは退勤に向けた後片づけにタスクは充てられ、お客様からのコールを受けることはない。ヘッドセットと、すっかり読むこともなくなったトークスクリプトをクリアバックに入れ、そのクリアバックをロッカーに収める。

「お疲れ様でした。良い休日を」

細長い更衣室の入り口で現場責任者の田崎さんが皆に声をかけた。コミュニケーション能力に優れ、私みたいに年の離れた派遣社員や年上の部下とも上手く付き合っている。きっとコールセンター業界に限らず、どの業界でも上手くやれる優秀な人なのだろう。

自分で選んだ道とはいえ、ライティングの収入だけでは生活をするには程遠く、並行して始めたコールセンターでの派遣勤務も半年が経つ。サラリーマン時代のプライドがまだ身体から抜けていないのか、田崎さんみたいな人をみると、私はビジネスの世界から逃げだした結果の出せない自由人として何処か劣等感に似たようなものと感じたりする。同じ物差しで測るべきではないし、そもそも物差しなんてものを持っている必要もないのだろうが、こんな感情ともまだ当分付き合うことになりそうだ。

普段とは反対方向に乗った電車は、湾岸に沿って大井町まで運んでくれた。

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おふろの王様 大井町店

ここは二回目。もう1年以上前か。
各線の大井町駅から5分以内と、抜群の立地に王様は鎮座し、数多くの浴槽とサウナで民を寛容に受け入れる。

前回訪れた際に買ったオリジナルのフェイスタオルはすっかりボロボロになり、先日の台所掃除でその生涯を終えた。ありがとう王様。

ここみたいに露天エリアがある施設であれば、内湯、サウナ、露天、内湯。これが私のお決まりのプロセス。今夜の気温ならいきなり露天というのも、さぞ気持ちが良いのだろうが、そこはこの特に意味のないプロセスに従わせてもらう。身を清めて不感湯から炭酸泉と少しずつ身体を温め、ジェットバスで8時間のデスクワークにより凝り固まった腰や浮腫んだふくらはぎを労った。

内湯にあるドライサウナ室は、おそらく20人ほどが収容することができ、一段一段に奥行きのあるひな壇。低めの温度設定に大きなTVもあり老若問わず、初心者でも入りやすい。

2セット目までを終え、3セット目は露天エリアにある漢方塩蒸風呂に入る。スチームサウナ、塩サウナ、これが私のお気に入り。寒い季節になるとドアの開け閉めで、室内の蒸気が宙に浮かぶ。夜ともなればなんとも幻想的で癒される。

多湿の室内には漢方の香りが漂い、ジャッキーチェンやキョンシーの映画にでも出てくるような大きな壺に水が張られている。

なかなかの熱さと湿度のなか、ドライサウナとは異なり己と対峙するほかないこの状況もまた格別に良いものなのだ。

目を瞑り10分ちょっと失礼することにする。

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絵美に詠う

フリーランスでの生活は思いのほか困難を極めている。大枠で捉えれば描いていた仕事の仕方をしているのだろうが、生活費を稼ぐことに追われる日々は依然続いており、これが仕事の成長で解消されるのか、私が根気負けしてまた逃げ出すことで終焉を迎えるのか、予断を許さない。

最もこの計画性がないにも関わらず、いまいち楽観的になりきれず思い切りのない性格は学生の頃からそうだった。漠然とした憧れを抱いているだけなのに”想いが強ければ、いつかそこへ辿り着ける”どこかそんな風に考えている節がある。どれだけ感じようが思うことがあろうが、動かないことには始まらず、決して辿り着くことがない。そんな当たり前のことに本当の意味で感じ始めたのは、恥ずかしながら、ここ最近のことのようにも思う。

ふと絵美と過ごした日々を思い出す。私がはじめてどうしても付き合いたいと思った人。何をしたいわけじゃない、ただ一緒にいたいと想った人。

恋だと確信してから、すぐに告白し、数日後には振られた。

「友達としか見られない」

20歳の大学生は17歳の女子高生に男として見られていないことを察してはいたが、伝えないことには始まらない。本当にどうしようもない場合は二度と会わないことも覚悟のうえでそこからの長期戦を始めた。

血気の盛んな馬鹿者は、非情にも絶え間なく湧き出る女性自体への好奇心を別のところで満たしながら、絵美との距離はその数千倍の時間を要しながら縮めることに日夜励み、はじめての告白から1年半を経て、文字通り”指一本”触れることなく絵美は”彼女”になった。

なんの美談にもならない話ではあるのだが、情熱と行動力だけで挑んだあの日々は、私の生涯でも特筆すべきものになるだろう。ありあまるエネルギーを持って、目の前の狩りに驚異的な集中力を発揮する、その姿は絵美という恋愛対象を追いながらも、他の女性との縁も多く生んでいた。

絵美とは2年ほどで別れることになったのだが、それ以降、私は女性との瞬発的に距離を縮めることに興味を持たなくなり、大学を出たことも相まって、仕事に夢中になる日々を過ごしてきた。そして例のごとく”そこそこ優秀なのでは”と勘違いしながら、会社を辞めてフリーランスを始め、暗いサウナ室で、どこかで置いてきた牙を懐かしんでいる。

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内湯に戻り、腰掛湯に座ると大きくあくびが出たが、やっぱりこの口に牙はないようだ。

どう作ろうか。


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