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人の生まれ持った才能は変わらない

どうもこんにちは、茶坊ピエロこと社会の底辺です。
肩書とペンネームがごちゃごちゃになっている私です。

年齢を重ねるごとに、体感温度は寒くなってきます。
私は祖父と暮らしていて、祖父の体感温度がこの夏場を涼しいと感じてるのでいつ熱中症で倒れるかびくびくしているところです。
まぁ猫がいるので、最低限エアコンはつけていますけどね


才能と努力

さて、唐突ですが皆さんは才能の差で挫折したことはありますか?
学業でテストの点数が低く順位が低かったり、部活動で運動部でスタメンやレギュラーになれなかったりなど、学生時代だけでも思い当たる節がある方は多いのではないでしょうか?

私も自分の初期ステータス、つまり才能がないため現在は社会の底辺をやってます

ここ最近は努力ですら、遺伝子的な意味合いで決まり才能であると言われる始末。
著名人の方にも努力できることは才能、努力できるかどうかと遺伝子的に決まっていると言っている方もいます。
生きにくい世の中ですね。

おそらく努力した才ある人間にとっては、成し遂げた事を才能と言われると腹立たしいと思う方も多いでしょう。
そして挫折した人間は、才能があって結果も伴っているのに贅沢だと思う方も多いと思います。

では才能とは、努力とは、一体なんなのでしょうか?

才能とは

才能、結構あやふやな言葉ですよね。
初期ステータスが高いことを指すのか、伸び代が高いことを指すのか。

日本のことわざに十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人と言う言葉で考えます。
それは10歳の時点で何か秀でるものがあっても、二十歳すぎて成長しなければ二十歳になった時どこにでもいる凡人にしかならないと言う意味。
いくら才能があろうと慢心が過ぎれば、何も成すことができない人間になってしまうよと言う、子供に説くべき言葉でもありますね。

しかしながらこういう捉えた方もできるのではないでしょうか?
と言うのも10歳程度の子供の時点で見出される才能は、大した事ないのではないかと言うものです。

ここで一つ皆さんに聞きます。
学校でした勉強、社会で役に立っていますか?

日本の社会に生きてる大人の方、或いは社会人になる為に就活をしている方々で、一度は考えた事があると思います。

学生で学んだ事のほとんどが社会で生かされることはありません。
数学者の方以外で、数学は計算問題などは買い物をするときや経理などに役に立ちますが、ベクトルや微分積分などと言ったあまり使われない項目も多いですよね。

さて、それを踏まえた上で子供の時に天才と言われるのはどちらでしょうか?

計算問題は速く正確に出来るが、それ以外はほとんど出来ない人。
計算は速くないが、ほとんどの項目ができる人。

そうですよね。
後者が天才があると評価されます。

では大人になってからを考えます。

計算問題の正確さから経理を担当するようになった人間と数学が出来るから数学者になった人間。

そのどちらが社会の大多数に求められますか?

こちらを見てる方に数学者がいたら申し訳ないのですが、経理の方が必要とされる事が多いですよね。

それは別に数学者に需要がないからと言うわけではありません。
経理の方が、必要とされる席が多いだけです。
会社の数だけ経理は最低限一人は必要だからです。

ではここまでの話を踏まえた上で、数学者と経理を担当した人間が転職活動をしたとき、評価されて雇われるのはどちらでしょうか?

経理のできる人間が評価され雇われます。

つまり、十は神童とは多くの無垢な子供達の中で大人に近い知識を持つ人間のことを指し、二十で只の人は必要とされる能力にそこまでは要らないから大多数の凡人と同じ扱いをされることも多い、と言う意味ではないでしょうか?

また世間でいうところの才能とは、大多数から評価される項目のことを指すのではないでしょうか?

努力とは

長らく才能の話をしましたので、タイトルにもある通り才能と努力の努力について話します。

某漫画雑誌のモットーの一つとしても掲げられていますね。

努力、それは才能とは違って一言で言うことができますね。
努力は何かをする為の過程。
野球だったら素振り、勉学であれば予習復習などですね。

しかし努力をして成功した人間にとって、その一言で片づけられるのは不服かと思います。
キツイことを長い年月をかけて手に入れたのに、成功しか見られないということですからね。

そこで世間でいうとこの努力は何かを考えていきましょう。

かくいう私も努力というものは数えるほどしかしたことがありません。
だから社会の底辺にいるのかもしれないですが、社会の底辺じゃない方の中にも努力をしたことがないという人間はいるのではないでしょうか?

それは努力をするのが辛いと思った時点で、努力してると自覚するからだと考えます。

多分努力をしたことがない人間はいないと思います。
ただ普通に生きることですら、努力が必要ですからね。
しかし言い方が違いますよね。

努力にも色々な形があるので、一つとして熱中という言葉を交えて考えます。

何かに熱中することも、大きな枠組みでいえば努力に入ります。
絵をかくことが好き、勉強するのが好き、スポーツをするのが好き、インターネットで情報収集するのが好き。
好きは人によって様々です。
そんな好きなことだけをしていても、人は成長します。
しかしその成長は緩やかです。
更なる向上をするには、そこに人とは違うことをする必要が出てきます。
そこで人によっては嫌なことをすることになります。

それが努力なのではないでしょうか?

わかりやすい例で行くと、バスケは高校生では10分を4クォーター、四回に分けて試合を行います。
狭いコートの中で攻守が激しいスポーツのバスケでは、体力をかなり必要としています。
そんな体力をつけるために、走り込みなどで肺に負荷をかけて一試合保つだけの体力をつける練習をします。

それは辛いですよね。

そしてそれだけでは試合に出してもらえないのです。
バスケのプレイが上手い必要がありますからね。
プレイ向上のために別の練習をする必要もありますからね。
そしてそれも全てした上で実力のある人間が試合に出るレギュラーを勝ちとります。

このことからもわかる通り、結果の中の過程に辛いと思ったことがあったときにそれを努力と呼び、楽しいことしかなかった時を熱中と呼ぶのではないでしょうか?

社会の底辺たる私は、何もできないのに何もしな・・・

努力は才能に追いつけるのか

さて才能と努力の考えを話したのはこのことについて話したかったからです。

それは、努力は才能に追いつけるのかどうか。

前述で話した通り努力には色々な言葉があります。
悪戦苦闘、現代では努力の言葉としても使われるそうです。
努力して困難を乗り越えることを言います。
困難を才能と過程するならば、努力で才能に追いつけることは可能だと思います。

しかし言葉でいうのは簡単ですが、この困難は非常に大変なものでしょう。
そして必ずしも困難を乗り越えれるとは限らないのです。

ここでタイトル回収です。
人は生まれ持った才能は変わりません。

例えば、身長150cmの人間が2m超えた人間と同じ土俵でバスケをすればほとんどの場合負けてしまいます。
東大生とFラン大学をぎりぎりに入った人間が努力して東大生にセンター試験のテストの点数で上を行くことができるとも思えません。

工夫すれば勝てるケースもありますが、工夫したうえでも負ける可能性すらあるのです。

以上のことからわかる通り、努力は才能には追いつけはします。
ですが凡人が天才を追い越すことはできません。
何故なら天才も努力をしているからです。

天才に対して勝ちをつかみ取ること

さて、ここまで読んでくださった皆様はこれで話が終わると思いませんでしたか?

長く読んでくださった皆様に努力しても天才に勝てないと言ったまま終わるのは、非常に不完全燃焼だと思います。

これを見てくださった皆様は自分に自信がない方、いませんか?
社会の底辺たる私はもう常に負けっぱなしです。

恋人はいないわ、仕事はできないわ、絵は上手くないわ。
誇れることなんてタイピングスピードくらいです。
そしてそれをここで愚痴るようなイキリオタクです。

しかし自分には才能がある天才と思って生きています。
天才である昨日の自分に勝ってます。

これは私のような友達の少ない人間のようなケースですが、挫折した方は周りを見てみてください。

自分が天才より優れている部分、本当にありませんか?
最初にも話しました通り、世間一般の才能とは大多数が評価する項目です。
しかし世間一般で評価されなくとも、才能とは生まれながら等しく備わっています。

見つけることができてないだけです。
探した才能が自分のしたいこととマッチしてないこともあるでしょう。

しかし今はこうして発信のしやすい時代になりました。

もし、自分の才能を見つけられてない方は才能を探してみてはどうでしょうか?
そして才能を見つけたうえで社会で何も生かせないと思ってる方は、匿名でもいいので自慢してみませんか?

最後になりますが、この記事が読んでくださった皆様に少しでも幸福になっていれば幸いです。


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