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"言語化"に完璧を求めてしまっていた

僕は他人に"自分が考えていること"を伝えることがとても苦手だった。ましてや議論になると、自分の考えを言葉にする前に僕の目の前を言葉がヒュンヒュン通り過ぎていき、全く参加できなかった。

そんな自分を変えようと、コミュニケーション講座に参加したり、話が上手な友人・知人にどんなことを考えて話しているのか、聞いて回ったりした。

その中で、自分の中で1番のターニングポイントになった言葉がある。

それは、当意即妙に返事を返すことができる友人に「なんでそんなにすぐ喋れるの?どれくらいで話を組み立てているの?」と聞いてみたときのこと。その友人はこう答えた。

「なんとなくで話しはじめて、話しながら話の構成を考えてるよ」

これは当時の僕にとっては衝撃だった。

僕は何かしらの形で質問を受けたら自分の中で一回答えを用意し、それに対して反論がないかを推敲し、自分の中で納得がいく文章になってから発言をしていた。

しかし、その友人はそんな事考えたこともないという。何も発言していないのはその場にいないのと同じだから、とにかく発言することが最も重要なのだ、と。

このとき、私が読んだ会話スキルの本に書いてあった「人は論理にではなく、熱意に納得する」という言葉を思い出していた。自分に足りていないのは論理構築力だと盲信していた当時の私には全く響かなかったが、今ならその意味がとても理解できる。実際、納得感がある人の話を書き起こしてみると論点があちこちにいっていたりするものだ。もし同じような悩みを持っている方がいたら、自分の理想の人の喋りを文字起こししてみるといいだろう。

そもそも、私は前提の時点で大きな過ちを犯していた。"完璧な言語化"なんて存在しないのだ。自分の考えを言語という汎用的なツールに落とし込んでいる時点で、狭義の意味で100%自分の意図が反映されることはない。ましてや、その言葉は他人に伝わると、その人が持つまた別の言語感覚で理解される。自分の考えから自分の言葉に、自分の言葉から他人の理解に... というように複数の変換器を経由するのだ。多少の誤差は必ず生じてしまう。

だからこそ、我々は誤差は生まれるものなのだ、と開き直り、とにかく自分の思考の切れ端を伝えるしかないのだ。そして切れ端である以上、様々な言葉を使って自分の想いを伝えるべきなのだ。量は質を凌駕するという言葉があるが、結果として相手に自分の思いがより正確に伝わるのは量だと今の私は思う。

そしてもう一つ、なんとなくで喋り出すことには副次効果がある。それは、とにかく言語化することで自分が考えていることを再発見することができるのだ。

言葉にするという行為は自分の脳内の土を掘る作業だ。言語化をすればするほど、より多くの土を掘ることができ、"深層心理では考えていたが、全く気付いていなかった"自分自身の考えに思い至ることができる。

実は今回も、「言語化の精度」というテーマでnoteを書こう、ということだけを決め、あとは自分が思うままにこの記事を書いている。"自分の思考の再発見"という切り口はまさにこの記事を書いている途中に発見したことだ。そしてこの発見は"徒然に記事を書く"ことをしなければ表面化しないまま自分の中に眠ったままだっただろう。

同じような悩みを持っている人がいたら、「完璧じゃなくていいんだよ」という言葉を伝えたい。とにかく喋ってみる。最初はうまくいかなくて当然。そんな考え方をしていないのだから。言語化は怖くないし億劫なものでもないのだ。

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