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親元を離れて「生きる」ということ

懐かしいほど昔ではないが、新しいほどの記憶でもない。

亡き父と過ごした時間は、心の中で変化していくのだろうか。

偲びて弔う気持ちとは、そういうコトなのかもしれない。

父が他界してから1年が過ぎようとしている。


「お父さんが倒れた。帰ってきて。」という電話を受けて急ぎ実家へと向かおうとした。今から約1年前のことだ。

午後の3時頃のことだった。

子どもらは実家へと向かうことになるのだが、きょうだい3人のうち私だけは翌朝の始発便で実家へと向かうことになった。その日のうちに実家にたどり着くことが無理だと断念したからだ。


死に際に立ちあえないこともある。

いや、むしろそれを目指してきたではないか?

自分にそういい聞かせながら夜明けを待った。


親の死に際に臨むことよりも優先させるべきことがある。生き生きと命を輝かせ好きなことをして自分の人生を謳歌して欲しい。

その言葉を父から受け取ったのは私が中学2年生のとき。

母方の祖父の通夜の夜だった。


田舎で生きていくということは、可能性が小さくなることでもある。

私の性格的に伝統的なスタイルの結婚は無理だろうし、自活する経済力を身につけるにしても、「旧来型の男社会」で生きていくことは難しいだろうなと思ったのだろう。

それほど大きな意味はなかったのかもしれないが、父の言葉は私の魂に深く刻まれ、その後、人生の命題は「実家を出て親元を離れて生きる道を探す」こととなる。


親元を離れて生きることを心細いと感じたこともあるが、今から過去を振り返ってみて、この生き方を選んでよかったと思う。

覚悟はしていたから、父の死に際に立ちあえなくとも、その事実を受け入れるつもりでいた。

始発の飛行機に乗り、実家へと向かい、父の病室に到着したのは朝10時半時頃だっただろうか。

父の心拍は不規則ながら、意識が戻ったり遠のいたりを繰り返した。


時々目覚めては、言葉を発する父。

「窓から飛行機を見ていたよ」

「お前が帰って来るのを待っていたよ」

「お前だけは朝にならないと帰って来ないと聞いたから、一晩頑張れたね。ありがとう」

途切れ途切れながら、そのような言葉を発して、父は再び眠りに就いた。


父は、どういう状況にあっても「感謝を引き出せる性格」だった。

私が遠くに住んでいるから、すぐには実家に帰って来られない。だがそのおかげで一晩頑張れたと考えたのだろう。

その状況から、父は、病院から外泊をしたり、自分の口からご飯を食べるまで回復する。

私自身は、父と最後に言葉を交わしたのは病室だった。それが父と会った最後の瞬間になる。

「お前の生きる場所に帰りなさい」

そういって送り出してくれた。


数日後、父は、残る力を振り絞り、自宅へと戻ることを決める。

母と2人で過ごす時間を選び自宅で過ごした最期の数日間。

「子どもが近くにいないから、お母さんと2人の時間を持つことができた。ありがとう」と母に話していたらしい。

子どもらが遠くへと巣立ったことを肯定的に受け止めた父は、感謝の気持ちで残された時間を穏やかに過ごした。


多くの人の支えと本人の努力の末、親元を離れて生きる道を切り開いてきた。幾重にも努力を重ね、周囲からの引き立てもあり、その繰り返しである。

親元を離れて「生きる」ことに必死になっているうちは気づけないことだが、この選択に対する肯定感の根底には、まず親の理解ありき。

父のおかげで今の私がある。

そのことを改めて心に刻み、この地に根を下ろして生きていこう。


   親元を離れて生きる全ての人に捧ぐ