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無縁仏となる日まで

子どもの頃からお墓参りが好きだった。

好きだったというよりは、子どもの頃のレジャーという立ち位置だったから楽しめたのだと思う。

家族そろって出かけることといえば、お墓参りくらい。私はそういう家庭で育ったのだ。

そんな環境で育ったからか、「死」はとても身近な存在だった。

生まれてきたら必ず死ぬ。

誰かから教えらえたわけではないが、「死」というものを自然と受け入れていた。

人によっては、死ぬことを忌み嫌う風習の中にいたりするのだろう。そういう人たちは、死ぬことや死んでから周りの人々に忘れ去られることを「恐怖」に感じたりするようだ。

私はというと、死に対して抱くイメージは、恐怖よりも安堵の気持ちが勝っている。この人生は辛くて苦しい修行でしかないからだ。

やがて必然として訪れる死の向こう側についても、ある一定の希望がある。

死んだ後には、徐々に私のことを忘れて欲しいと願っているのだ。

◇◇◇

私が流れついたこの地では、墓仕舞いをした人たちの寄せ墓のようなものが墓地にある。

その「寄せ墓」を無縁仏として、誰もがお参りをしていく。

この地を支えてくれた人がいた。そのような小さな存在が確かに存在していた証である。

私は、自分と面識のあった人が、私の死を悼み、数年から数十年の単位では、弔いをしたいと思う限りは、お墓に参ってもらっても構わないが、できるだけ速やかに私のことを忘れて欲しいと願っている。

私のことを忘れて欲しい。

既知の人々に忘れされられて、無縁仏となる日が、私の人生のゴール。

私が出会うことのない未知の人々が、無縁仏となった私たちに手を合わせる。なんという心安らかな未来だろう。

そのような夢を見てはいるが、まだお迎えは来てくれそうにない。

無縁仏になる日は随分と先になりそうだ。

その日が来るまでしっかりとこの世での修行を積まねばなるまい。

春の彼岸を迎えるにあたり、そのようなことを思っていた。