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思考のピントを意識した「言葉」の選び方

こんなことを言わなくてもいいだろう。黙っていても相手はわかってくれるはず。そういう言い訳を並べたて言葉にすることを躊躇うことがある。内面の弱さゆえだろう。

一方で、こんなことを言うと相手に失礼だろう。敢えて言葉にしない関係を相手は望まれているはず。相手のプライドを傷つけないよう配慮して、言葉にしないこともある。

言葉を発しない理由は、どちらの可能性もある。

同様に、言葉を発する理由は、自分にあることもあるし、相手にあることもある。

だから実際の理由は早計に決めることはできないが、言葉を選ぶ基準の実際は、「どちら」なのだろうか、あるいは「どちらとも」なのだろうか。



人と関わるとき「思考のピント」をどこに合わせるかで、見える景色は違う。

それはどういう状況だろうか。

写真を撮るときに置き換えて考えてみよう。

花の写真を撮ろうとして、思わぬところにピントが合ってしまうことがある。

花に焦点を合わせたつもりが、葉にピントが合ってしまうことがある。本来の意図からすると、それはピントが外れた景色ということになる。

要するに失敗だ。

しかしながら、ピントが外れたことにより「葉脈の美しさ」に気づかされることもある。

デジタル画像ゆえの気楽な感覚と言われればそれまでだが、失敗から見える景色に価値を見いだせるなら、失敗も価値ある体験と思えるだろう。



言葉を選ぶときも写真のときと同様でよいと思えないだろうか。

予めの意思を持ち、ピントの狙いを定める。けれども、ピントが思った通りに合うかどうかに拘りすぎなくてもよいのだ。

たまたまピントが合ったことを「意義のあること」として捉え、映る景色を観察すると、言葉選びが案外楽になるかもしれない。

うっかりズレたピントが、無意識下の自分の心を映している可能性もあるからだ。