白と黒がつくる世界には白も黒もない
どこかで耳にしたことがある。白か黒かで決めず、「灰色の世界」だと思えばよいという話を。
灰色の世界だと思えという意見に頷ける部分もある。そういう考え方を悪くはないと思う。だが、私の世界観とは微妙に違っている。
白か黒か
実際は、それほど白か黒かの極端な判断をしていなかったとしても、判断が極端な傾向がある人のことを「白か黒かの極端な意見だね」と表現しているように映る。
例えば、白に25%の黒が入った灰色とか、白と黒が半々の灰色とか、白に75%の黒が入った灰色とか、大雑把な段階があって白と黒を判定するといった場合。白か黒かではないにせよ、世界感が白と黒を含めた4段階の濃淡でしか判別できないなど。
そういう場合は、ギアをチェンジするように判断が変わっていくので、周りから見てみると極端な判断基準でモノをいうなぁという印象になってしまうようだ。
見ている世界がそれほど単純ではできていないのに、単純な物差しで判断しようとすると、そこに祖語ができてしまう。
灰色の濃度を示すグレースケールは
実のところ、無段階で変化していく灰色の世界がこの世にはある。
灰色の濃度を示す「グレースケール」は、あたかも連続であるかのように細やかに区切られている無段階なものだと認識すること。見ている世界をありのままに認識しようとするなら、それしかないだろう。
だが、それさえできれば十分なのだろうか?
無段階に濃度を変化することができる灰色の世界観。
それができれば、それはそれでよいのかもしれないが、私の捉える世界観はそのようなものではない。
微妙な違いの間を揺れ動く実態
灰色の世界を見ていたとして、その1点の色評価はコレという灰色で固定されるものだろうか?
私は、そうは思わない。
常に微妙に変化していくのだとい認識だ。
時間という概念を見ている世界に取り入れることで、灰色の濃度の揺らぎにも気づくことができるだろう。
白と黒の混ざり具合は時の流れの中で変化している。いつも同じ状態のものが存在しないわけではないが、「変わることができる」という可能性は秘めているように意識している。
そうい目線で世界を見ることで、根拠のない「希望」という光を心の奥底に抱く。
今見ている世界は、常に色の濃さを変え、灰色の世界を漂っていると捉えるからこそ、今の「絶望」に耐えることもできる。変化を信じて、生き抜こうという気持ちを持続できるのだ。
臨機応変に視野を広げ、豊かな灰色の世界を
絶対的な善もなく、絶対的な悪もない。
白と黒がつくる世界には、白も黒もなく白と黒を混ぜてつくられた灰色の世界があるのみ。
限りなく白に近いグレーと、限りなく黒に近いグレーとが存在していて、灰色の濃度は、その周りにある灰色との相対で決まる。
黒が10パーセント入った白と、黒が1パーセント入った白とを見比べてみれば、その違いに気づけるだろう。
灰色は常に変化しているが、周りとの相対で白っぽさや黒っぽさも変わっていく。
灰色の世界観「今見ている世界が」未来永劫続く「絶対」ではないということを知ることでもあるのだから。