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貸し借り上手

友人同士の貸し借りはトラブルのもと。お金のことであれば、それは全くそのとおり。

万が一、友人間でお金を仮に貸すことがあったとしたら返ってこないものと覚悟して渡すしかない。

しかしながら、お金以外のものであれば、上手な貸し借りによって交友が広がることがある。


ご縁の不思議

これまでいろんな人との出会いがあった。

私は初対面でも臆することなく話すことができる。ただし気の合う人限定ではあるが。

そんな自分であるから、気の合いそうな人に出会うと、大切にしなければ......という対人関係の飢えとでもいうのか、妙な貧乏性のような気持ちが働くのだ。

もちろんその関係が続くとは限らない。

たまたまのご縁が「その時限り」であったとしても、そのご縁に感謝をする気持ちでいる。ご縁を繋げたい願望ありきで行動しているわけではないのだが、関係を大切にしたいという姿勢が、新しい関係へと繋がることがある。



初めましてのタイミングで気をつけたいこと

もちろん、相手によっては、仲良くなりたいというこちらの気持ちを敏感に感じ取り、警戒されることもある。

それはそれで仕方ない。

だが、時々、相手のほうからお茶に誘っていただくこともある。自分が警戒されるのと同様に、誘われる側になればこちらも警戒はするのだ。

だが、その時は、できる限り警戒を緩めてお誘いをうけるようにする。

もちろん、それができるのは、「ここまでならYES」「ここから先はNO」ということをキチンといえるという自覚があってのことだ。

初めましてのご縁を繋げるなら

初対面でのお誘いは、たいてはお茶という形でスタートする。

その場合、大勢の中ではいいにくいような話がされることもあるし、それを聞かれることもある。

すごい秘密を打ち明けられるわけではないのだが、落ち着いてお茶でもしませんかという声かけがされたことに納得する程度の話題で会話は弾む。

初対面の関わりは、必ずしも「お茶」からスタートするとは限らない。

たまたまのご縁でアクティビティが先にあり、そこから食事へと時間が流れていくこともある。

ご縁の繋がり方はいろいろだ。


次に会うための貸し借り

これまでのご縁で印象深いものがいくつかある。

それらのご縁では、先方が上手に貸し借りの流れをつくってくれた。

「今日は私がご馳走しますね」

そういって、コーヒー代金程度、日本円で数百円程度のものをご馳走してくれた。私が恐縮すると、次に会うときに、お茶をご馳走してくださいと言葉を添えられる。

私は、その言葉にめっぽう弱い。

「次、必ずお会いしましょう!」

この言葉を守ろうと最大限の努力をする。約束を果たすために、海を渡ったこともあるほど。時間も経っていたし、先方はすっかり忘れてしまっていたが、コーヒーのお供として楽しい話題になったのは確かだ。

貸し借り上手であるために

私は、借りを返すために行動をしてきた。だが、このような貸し借りをしたとしても、返すための行動を起こさない人もいるだろう。

「あぁ、いい人だったなぁ」

とか、

「コーヒーおごってもらっちゃった!」

とか。

そもそも、コーヒーをご馳走になった時点で、

「ごちそうさま」

と笑顔でお礼をいって、それっきりになるケースも多々あるだろう。

だが、私は、そのようなことがほとんどない。(「ほとんど」ないとというのは、記憶の中にはないが、実際には忘れていることもあり得るから)

私の「生態」がそのように設定されているのだろう。生態というか、気質というか、人格の根底にある本質なのだ。


袖すり合うも他生の縁

初対面で貸しを作ってくる人は、私のことを見抜いてのことだったのかどうか、それとも、これまでの人がもともとそういうスタイルなのかは不明だ。

いずれにせよ、私の人生には、貸し借りが上手な人による「貸し」からスタートするご縁が複数存在している。しかも、それらのご縁は、細く長く、20年、30年と続いているのだ。

袖すり合うも他生の縁という言葉は、ちょっと親切にして関わったという一過性の関係に使われることもあるが、そればかりではないと思う。

「袖すり合うも他生の縁」という言葉を深く解釈すると、貸し借り上手な関係性に発展するのではないだろうか。


借り上手から返し上手へ

私も、貸し上手になれたらと思う。

だがこれは、ご縁の本質的な性質として「決めごと」があって、人知を超えた何かが働いている気がしている。

貸す側なのか、借りる側なのか、自分を見極めることが肝心。

どちら側になるかは自分で選べないのだ、おそらくは。

借り上手であると同時に、返し上手になって、これからもご縁を繋げてきたい。

人と人との繋がりが、豊かな人生の神髄だと思うから。