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「不幸を噛みしめる時間」も必要である

「病気自慢」という言葉が存在する。

聞く立場になると嫌だと思うことでも、自分はそれをやってしまうこともあるだろう。

親しい人なら話を聞いてもらって痛みを分かち合うことにも一定の意味がある。

自分の「大切な人」が独りで苦しんでいたとしたら私は悲しい。だから「親しい間柄であれば」辛い気持ちを吐露してもらうことは一向に問題ない。

けれども、「なぜあなたの辛い話を私にするの?」と思われるような関係であれば、話は別だ。つまり、相手との関係性を十分に考慮した上で話すべき。

人に打ち明け話として病気の話をするときは、双方の関係の濃さ、親密度に注意する必要があるのだ。

辛い気持ちを節操なくそこら中にまき散らすことは問題だろう。

特に、辛い気持をまき散らすとき「相談」という言葉が使われると厄介だ。より一層状況を深刻にする。

厄介というのは、「相談」といわれると、話を聞かないことに罪悪感を植え付けることが可能だからだ。そういうやり方は卑怯でもあるし、断った側にも嫌な思いをさせる。

全ての人ではないが、病気自慢の傾向がある人は、自分の弱みをさらけ出すような「前ふり」をして、不幸自慢を聞かせようとするのだ。

まき散らすことは問題だとはいえ、心の内で、ひとり辛い気持ちを噛みしめることはよいだろう。

ここぞというときは、自分は世界で最も不幸な人間だと泣きじゃくるくらいのことはやってもよいと思うのだ。

誰にも聞かせない気持だからこそ、底なし沼のように自分の不幸を噛みしめることができる。辛い気持を閉じ込めず、かといって誰かにそれを伝えるわけでもなく。辛い気持を気兼ねなくトコトン味わうのだ。

誰にも聞かせない話であれば、それは自分自身の中で完結している物語。正真正銘、自分が一番不幸な人間として君臨できる。

この世で一番不幸な人間だと自分の人生を呪うことすら可能なのだ。

いつでも前向きで生きられるわけではないから、不幸を噛みしめる時間も必要である。

特に、新しく病がみつかったときや、病の再燃を告げられたとき。

すぐに前向きな気持ちになれるはずがないだろう。

そんなときには、とことん不幸を噛みしめ、思いきり泣く。その時間が困難に立ち向かうエネルギーになる。

心ゆくまで涙を流し、涙を拭いて、また明日から前を向いて生きればよいのだ。

戦う準備が整っていなかったとしても「病」は決して容赦などしない。

万全ではなくとも、とにかく戦うしかないのだから。