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芝生の雑草抜きから学ぶ「人づきあい」のコツ

まる一日庭の作業ができなかった次の日は、勢いよく育つ雑草が目立つ。

雑草の生命力は抜群だ。芝生の成長も著しいが、それを遥かに超える勢いで芽吹いていく。

ぐんぐん育つ雑草に感心しながらも、芝生の領域を護るため、私は雑草を抜く。雑草LOVERだからかもしれないが、ただ雑草を抜くという行為にも楽しみがあるのだ。

雑草を抜くときには、根の形をイメージしながら抜いている。目に見えない根っこの形を想像しながら抜く。名前は知らない雑草であっても、おおよその根の形は察しがつくのは経験値があるからであろう。

根っこの形を想像しながら雑草を抜くという作業は、手の内を見せず関わってくる人との関わりかたを模索する「心の動き」に似ていると思う。

芝生の領域を「自分の領域」とするなら、雑草の姿は、私の生活の中にポンといきなり入ってきて「ワシに関心を払え!」という「人」のように映るからだ。

しかも、関心を払って欲しい根っこの部分を見せないまま関わりを要求する。

ときには、「え?どちらさまですか?」と追い返したくなる気持ちにもなるが、そのような人が目の前にいるというのも、それはそれでご縁。

だから、私は、目の前の人が、「どんな本心を隠しているのか」と観察して関わり方を模索するのだ。

「特別親しくない人」との関わりにおいては、注意深く慎重に、「親しい人」との関わりおいては、相手がいつもと様子が違うと感じた場合には、丁寧に観察する。

そして、観察した情報をもとに「言動の真意」を想像するのだ。

人が心の中に隠している何かというには、必ずしもネガティブなものではない。

恥じらいであったり、躊躇いであったり、たまたま何かのトラブルを抱えていることもある。不安が根っこにある人が「怒り」という形で感情を爆発させることさえあるのだ。

雑草の根っこをイメージするように、人の心に隠されたモノを想像する。だが、その試みは、雑草の根っこをイメージするほどシンプルにいかないこともある。

人の心の複雑さに比べれば雑草の根の張り具合などは可愛いモノ。

根っこの形は草の形から類推が可能であるし、たまに外れることもあるが、それ自体を楽しめる余裕もある。

とはいえ、ただこれほど雑草を抜く手作業を楽しめているのは、ほどほどの量だからだろう。

雑草が増えすぎると雑草を抜く作業は途端にストレスとなり得ることは想像に難くない。

人との関わりも似たようなものではないだろうか?

心の中に隠すモノを想像しながらつきあうのは難しい。だが、ある程度、数がコントロールできたなら、人づきあいからくる疲れを減らすこともできると思う。

人とのつきあいは経験値が増えれば増えるほど、人の心の複雑さ、言動不一致の怪奇さに感心してしまう。

きっとそれは、見方を変えれば「人間らしさ」の賜物。本心を隠す能力があるから、複雑でゆたかな情感を抱くこともできる。

その面倒さを肯定的に受け止めていこう。

想像力を働かせて。