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『問いの立て方』の紙芝居

「なんのために働いているのか?」
「どうすれば幸せになれるのか?」
「なんでこんなに苦しいんだろう?」

ひとり悩むこともあれば、誰かと話をしながら考えることもある『問い』。


「いい問いってなんだろう?」という「問いの中の問い(究極の問い?)」を問うのが本書です。(なんともややこしいテーマですが、こういう哲学な本がさいきんの好みです)

※本noteには、勘違いと消化不良が混ざったまま、咀嚼のために自分なりに表現したものを掲載しております。絶対に本書を手にとったほうがいいことは間違いないので、ぜひ興味をもった方は、お近くの本屋さんで手にとってください!!(Amazonもいいですが、できたら本屋さんでお願いします)

「問いを問う」とさいごに「自分」にいきつく

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日々の仕事や生活の中でだれかに問われる問いは「これじゃぁない」感じがすることが多い気がします。(そこで「なんでそんなこときくの?」といってしまうと、さらに厄介なことになるのも目に見えてますが汗)

人によって違ったり、時と場合によるものだったり。

そんな『可変』で「問うてもしかたのないこと」ではなく『不変』で根源的な問いこそ、本来問うべき問いです

「そもそも・・・」とか「なんで?」とか、いろんな問いがありますが、根っこを探っていくと、好き嫌いや価値観、その背景にある歴史や文化や時代に行きつきます。(ややもすると親のせいとか、社会のせいにしてしまう問いになりがちですが。。)

そして最後には、問いを抱く自分自身の存在にいきつき、「自分がいるから社会がある」ことに気がつき、「しかし不変の自分なんてない」という衝撃的な真実に気がついてしまいます。

そこで止まってしまうと「自分なんて。。」と落ち込んだり「考えても仕方がない。。」と無力感に押しつぶされてしまいそうになりますが、「自分がどう世界に向き合うか次第で、世界はかえられる」と捉えて、問い考え続けることをやめなければ、「自分らしくある」ことが「問うこと」とつながります。(確固たる自分なんて必要ないはず(というかありえない)ですが、どうしても『自信の所在』のような安心できる何かを求めてしまうのも人間ですよね。。)


とらえがたいものへの目線と立ち位置

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では、いい問いに磨き上げていくために「問いを問う」にはどうしたらいいんでしょう?どんなことに注意を向け、どんな範囲でものごとを捉えようとするか?

世の中には、とらえがたいもの(不可視)、とらえやすいもの(可視)があり、自らのおかれた状況(個別)とその境遇(全体)があります。さらには時間軸を加えて、「問いを問う」と、ぜんぶで12の問いになりました。

12の問いの中でも、普段はあまり問うことがないのは「不可視×全体」の3つの問いかもしれません。とくに「この世に責任がもてるのか?」という問いは、世界に対して責任を負う覚悟を問うものであり、誠実さや器の大きさのような生き様を求められる問いです。

目に見える、とらえやすいものほど、人類に共通する絶対的なものとして「自分を囚えてしまう」危険性があるように感じました。


いい問いは、気づくことで見つけられる

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問いを問う考え方はわかってきた。では日々なにをすればいいのか?

終始一貫して、著者は「こうすればいい問いが得られる」という答えを疑ってみており、むしろ消極的で受動的な意図せず「もってしまった問い」こそ『いい問い』であると主張します。

そのため、人やものごとと向き合った際に感じられる違和感や、対象との対比や対話で浮かび上がってくる自分像の自覚にこそ、いい問いに出会うチャンスが秘められています。

いい問いとは「自分が理想とする社会の追求」であり、「社会から理想とされる自分の追求」でもあるんだと思いますが、社会からの要請にこたえることが全てになる危険を回避し、ニーチェのいう「自分自身の主人たれ」の意識をもつことが肝心なんだろうなぁと感じました。


ここまで長文をよんでくださり有難うございました!お疲れさまでした!