白畑よし・志村ふくみ『心葉:平安の美を語る』(人文書院・平成9年)
みなさま、こんにちは。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今日は白畑さんと志村さんの対談集を取り上げてみます。
私自身、志村さんの御著書はよく拝読するのですが、白畑さんは今回が初めてでした。お二人については下記をどうぞ…。
●白畑よし(明治39年10月29日ー平成18年6月2日)
大和絵研究者であり、女性美術史家の草分け的存在。
詳細は東文研アーカイブズデータベースをご覧ください。
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28367.html
●志村ふくみ(大正13年9月30日ー)
染織家、紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)、随筆家。御年99歳。
草木染めの糸を使用した紬織の作品で知られています。
私は学生時代に大学図書館で読んだ『つむぎおり』という書籍で志村さんと出会いました。
公式ホームページもあります。
https://shimuranoiro.com/
さて、本書のタイトルにある「心葉」とは、和泉式部の次の歌から採られたそうです。
私の手元にある岩波文庫版の『和泉式部集・和泉式部続集』で調べてみると、1530番歌として上記の歌が載っていました。
詞書には「九日、紅葉のいと多う散りたるを、箱の蓋に入れて」と記されています。
「心葉」は私には馴染みのない言葉でしたが、註には「贈物の箱や折敷などを、金銀糸で飾ったもの。ここはそれに人の「心」をかけた」とあります。もう少しわかりやすく言うと、人に物を贈るときに、その季節のものを添えて贈るというイメージですね。
本書では、学識豊かなお二人が「平家納経」、「三十六人集」、「古今集」、「源氏物語」などを繙きながら平安の美について迫っていきます。語り口は平易ですがその内容には深いものがあります。
平安時代の仏教(本書ではとりわけ天台思想)に疎い私には難解なところも多々ありましたが、当時の日本人の美意識や歌ごころについて深い学びをいただきました。下記、備忘を兼ねていくつか記しておきたいと思います。
文化意志という観点は非常に重要だと思います。ひとつの見識として心にとどめておきたいものです。現代は、個々人の個性はあっても総体としての文化意志は乏しいのかもしれません。その良し悪しはともかくも…。
そういえば、年明けから大河ドラマで『源氏物語』が取り上げられるそうですね。テレビを持たぬ私にはかかわりのないことですが…。近所の書店にも関連書籍がずらりと並んでいました。ドラマだけではなく、多くの人がこれを契機に『源氏物語』を読んでくださるといいなと思います。
たしかに言われてみれば、色を重ねるだけで何物かを表現するというのは高度で洗練された美意識だと思います。流麗なかな文字と並んで日本の生みだした美の極致と言ってもよいかもしれません。余分なものがないのです。現代ならばきっと生地にあれこれと模様を描き入れてしまうでしょうね。
襲の色目は、「何も描かれていない」ことによって表現上の制約がなくなり、志村さんの言葉を借りれば「大自然を、宇宙を」あらわすことができるのです。本書を読んだ後に、民藝運動の父、柳宗悦の言葉に出会いました。曰く、「無地とは模様がないのではなく、一切の模様を含んだ無である。」
元号が令和になったときに『万葉集』がブーム?になりました。以来、そこそこの規模の書店には『万葉集』関連の書籍が置かれています。『古今集』も何かそういうきっかけがあればいいのに…と思います。
私は就職したばかりのころ、職場の昼休みに『古今集』を読み耽っていました。世塵から離れることでちょうどいい気分転換になったものです。学生時代に読んだ時とは違った感触がしたことを思い出します。今読み返したらまた新たな感想を抱くのでしょう。
その『古今集』は岩波文庫版だったので丁寧な現代語訳はついていませんでしたが、それが却って心地良かった。敢えて誤解を恐れずに言えば、最初は意味などわからなくても一向に構わないのです。何度も読んでいるうちに次第に意味が掴めるようになってくる。そういう時間をかけた読書、生涯をともにする書物というものがあってもよい。私たちはいまは何につけてもすぐに意味を知りたがる。Googleで検索、とか言ってね。それはそれで便利なのだけれど、歌は意味(≒現代語訳)だけでは掴めないものがあると思うのです。
私たちは「諳んじる」という営みを忘れて久しいのですが、殊に詩歌にあっては重要だと思います。私自身、好きな歌は空で言えるようになりたいと思いつつも、ついつい新刊書に手を伸ばして後回しになってしまっております。実に情けないことです。
こうしてみると、道長というパトロンはなかなかえらいものですね。なんとかして女性の力を引き出そうと考えて実践した人でした。成熟した文化は男性だけでは成立しません。
志村さんが染色をなさるとき、紫草の根から抽出した液に六十度以上の熱を加えると、色がなくなってしまうといいます。私のような素人には、きっと美しい紫色が出てくるのだろうと思うのですが…不思議なことに、紫色ではなく、灰色のような色にサッと変わってしまうそうです。そういったこれまでのご自身のお仕事を踏まえて、『源氏物語』の紫の上に寄り添うと、滅紫というひとつの解に逢着する…なんという直観の冴えでしょう。凡庸な私などはただただ驚嘆するばかりです。
『源氏物語』が”紫”の物語であるということはいろいろな書籍(概説書やエッセイなど)に載っていることですが、志村さんが指摘された紫根の性質には思い当たりませんでした。こういう一節に出会うとき、私はほんとうにうれしくなります。書物に親しむよろこびを実感するとともに、またひとつ古人の心持に寄り添う標を得た気がいたします。
私も元気をもらいました。倦まず撓まず勉強いたしましょう。
惟うに日本文学とは古典とは、汲めども尽きぬ泉のようなものではないでしょうか。
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