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【読書日誌】岸政彦『断片的なものの社会学』

野晒しになっている雑草を寄せ集めて束にしてみたら、偶然、美しい花束になったような。そんなエッセイだった。

もう何処にも行き場のないような〈世界の断片〉が羅列されて、それが突如、感情の波となって襲ってくる。

ただ世界の何処かで起こっていること。日常の何気ない一瞬。誰からも意識を向けられないような事象。物語としては理解できない無意味なものの羅列。

全ての人から忘れ去られているのに、それでも世界に存在し続ける何か。

そんな断片的なものが淡々と並べられている本だった。



それは掴みどころのない本だ。だからこの本は、本当に要約が難しい。いや、そもそも著者は要約されることを望んでいないとも思う。

著者は、生活史調査を専門とする社会学者の岸政彦だ。

この本では、彼が社会と対峙する上で、基本的に持っている哲学的な思想が飄々と綴られている。



しかし、それが本当に面白い。これは著者のセンスによるものだろうか。

岸政彦という社会学者は、生活史という手法を使って、質的な調査を行なっている。生活史というのは、当事者の人生の物語をインタビューによって記録する手法である。インタビュアーの岸は、当事者の生い立ちからその人たちの人生の話を事細かに聞いてゆく。

そうして聞き出された言説は、基本的には社会学的な手法を用いて分析される。

しかし、ときとして、どうにも分析できない事象に遭遇することがあるという。

そのような〈不思議と印象に残っているが分析のしようがないエピソード〉が、この本では短編集のような構成で語られている。

無作為にどのページを開いても、味わい深い言葉がそこには必ず存在している。



この本に通底する思想は何かと考えてみた。

そこで思ったのが、「強引な物語化の拒絶」である。


僕らは生温い物語の中で生きている。

世界は無数の因子によって複雑に絡み合っていて、混沌としていて、それでいて残酷だ。不条理な現実が意味もなく降りかかっていることが往々にしてある。

だからこそ僕らは、事象と事象を組み合わせて、無理矢理に物語として世界を構築し、理解しようとする。

そうでもしないと、このカオスな世界を人間は生きてゆくことができない。なぜなら僕らの思考処理能力には限界があるから。


そこでは、「物語」は、納得可能な説明付けであり、断片と断片とを都合よく結びつけて解釈するためのツールとして利用される。

それはもちろん、人間が現代社会で生きるための術である。



しかし、著者はこうした「物語化」に対して、違和感を示している。

つまり、「非物語」的な思想がそこにはある。

その岸の思想が端的に分かりやすいエピソードがある。



岸が大学生だった頃、彼が小さい頃がずっと飼っていた愛犬が死んだという。

岸は一ヶ月ほど、癌になった愛犬を実家でつきっきりで看病をしていた。しかしその日、彼は買い物をするために一瞬の間、外出をしてしまった。

そして彼が家に帰ってきた時、その愛犬は既に死んでいた。という。


この話に対して、本書では下記のような記述がある。

犬の死に際を見てやれなかった、ということをいつまでも気に病んでいると、あるひとが私に、あなたに死に際を見せたくなかったから、出かけているあいだに先に逝ったんだよ、と言った。私は怒って否定した。

犬はそういうことを考えない。飼い主に気を使ったりしない。彼女はただ、ひとりで死んだだけだ。ただひたすら、死ぬ瞬間に一緒にいてあげたかったと、あれから二十五年以上たったいまでもそう思う。

岸政彦『断片的なものの社会学』(218頁)


すごく悲しい経験だと思う。彼の気持ちは推し量ることしかできないが、僕も実家で犬を飼っているから、きっとすごく悔しくて、悲しかったのだろうと慮ることはできる。

そんな時、確かに〈あるひと〉が言ったように、犬がひとりで死んだことに、都合のいい理由をつければ、少しは気が楽になるかもしれない。

この矛盾だらけの世界になんとか意味を見いだして、どうにかして生きようとするものでしょう?

そうでもしないと生きていけないようなことがこの世にはあるんだよ。



でも、岸政彦はそれを頑なに拒否したんだ。

そこに僕は感服するし、ここにこそ彼の哲学が凝縮されているとも感じた。


彼の断片的なものに対する見方。世界の捉え方。その全てが新鮮で鮮やかだった。そんな本だった。

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