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いま、宮下パークがヤバい。|写真でみる「Chillすぎる公園」

僕は変態かもしれない。

宮下パークが好きすぎて、でもなぜ好きなのかは自分でも分からないが、それでも好きで、ここにいる人たちの写真を撮っている。

そしてあることに気づき、ついには宮下パークの論文を書くことにした。とんだ酔狂な男である。

そもそも、僕が「渋谷」を研究のフィールドにしようと決めたのには、「宮下パーク」という特異な空間の存在があったからだ。

渋谷駅から徒歩3-5分という好立地な場所にある公園にもかかわらず、この宮下パークには、嫌な喧騒というものが一切排除されている。

皆さんもご存知の通り、渋谷と言ったら金と性と欲望、それからほんのちょっとの愛が渦巻く繁華街である。初めて1人で渋谷の街に降り立ったとき、浮足立つような感覚になったのを覚えている。それに、当時高校生だった僕は、自分の住む郊外よりも渋谷には美人が多いということに、胸をうち震わせていたものだ。

そして駅前では子供から若者、老人、社会階層の底層から富裕層まで、種々雑多な人間が行き交う。ハチ公前は言わずと知れた待ち合わせの名所だ。

しかし、そんな猥雑で喧騒にまみれた渋谷に、なんとも異次元の空間があるのだ。

MIYASHITA PARKという屋上公園である。ショッピングモールが併設された建物の屋上に広い開放的な空間が存在する。

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スケボーができるスポットがあったり、ボルダリングで遊べるスポットもあるが、それ以上に、ただただ芝生が広がり、腰かけられる場所が多くあり、スタバがある。

そこには若者が溢れ、独自のライフスタイルが醸成されているように思える。

渋谷の喧騒から外れた「ねじれの位置」のようなこの空間には、「空間デザイン」と「若者」が織りなす、一種の社会的に特異な生活様式が見て取れる。その実態はまだまだ分からないが、僕はそんな曖昧で頼りない仮説を立てた。

これが、「宮下パークのエスノグラフィー」のはじまりである。エスノグラフィーとは、要するに行動観察のことである。現地に行って、実際に人々と関わり、会話やラフなインタビューを通して、この空間での人々の行動様式を記録するのだ。


で、まずは行ってみようということで、僕は相棒のカメラちゃんと一緒に宮下パークへと踏み入れた。(1人でこの場所へ来るのは少々勇気がいる。ぼっちである)

時間帯は午後6時ごろだった。11月だから既に日は沈んでいて、宮下パークは心地よい薄暗さに包まれていた。

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気温は17℃くらいだったと思う。過ごしやすい気温、晴れ。薄暗く、若者が多いのに、不思議と静かな公園。(車のクラクションや電車が走る耳障りな音はほとんど気にならない)

まさにchillな空間だった。でも第一印象だけで決めつけてはいけない。僕は得意の知らない人に声をかける作戦で、調査を開始した。

まず、手当たり次第に声をかけ、「研究のために写真を撮らせてほしい。ついでにその写真をインスタにも載せたい」という打診をすることにした。その時に話していた言葉は下記の通りである。

「突然すいません! 今ですね、大学で渋谷の研究をしていまして、渋谷の街頭100人の方のお写真を撮る、というのをやっているんですね。もしよかったらあなたの(あなたたちの)お写真を撮らせてもらえませんか? また、インスタにもお写真を載せさせてもらえたらと思っています。」

ここで、僕が一番驚いたのは、こうした提案をしたときの承諾率である。普通なら道端で「写真を撮らせてほしい」と何処の馬の骨とも分からない男に声を掛けられたら断るのが当たり前である。

実際、僕が渋谷のセンター街付近でこのように「写真を撮らせてください」と声を掛けまくったことがあるが、5割の確率で断られた。ちなみに、この時に声を掛けたのは、基本的には若者で、道端に座り込んでいたり、複数人で話していたり、スマホを見ていたり、タバコを吸っているような、立ち止まっている人たちを対象に声をかけた。(下の写真:渋谷センター街)

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その夜は、センター街で70人くらいには声を掛けたと思うが、その半数には断られたと思う。断られるのにも慣れてくると、最強な気持ちになれる。失敗前提で声を掛けられるマインドになると、もう怖いものはないのだ。僕は肩で風を切り、顔面にタトゥーを入れた大男にも声を掛けた。(そして優しく丁重に断られた)

そりゃそうだ。渋谷だ。何度も言うが、金と性と欲望、それからほんのちょっとの愛が渦巻く繁華街なのだ。中には後ろめたい気持ちと共に生きている人もいれば、職業柄写真写りに敏感な人もいるだろう。それは承知の上だった。むしろそれが渋谷の渋谷たる所以だとすら思っている。

それにもかかわらず、宮下パークでの写真承諾率はほぼ100%だったことを、ここに強調しておきたい。二日間で計100人以上には声をかけたと思うが、断られたのは、ほんの4組だけだった。

「突然すいません! 今ですね、大学で渋谷の研究をしていまして、渋谷の街頭100人の方のお写真を撮る、というのをやっているんですね。もしよかったらあなたの(あなたたちの)お写真を撮らせてもらえませんか? また、インスタにもお写真を載せさせてもらえたらと思っています。」

と、同じように宮下パークでくつろいでいる若者たちに声をかけた。そのほとんどが大学生や専門学生、高校生だった。たまに社会人もいるが、基本みんな若い。

彼らは友達同士で芝生に寝転がったり、MacBookを開いて何か作業をしたり、談笑を楽しんだり、恋人同士でベンチに座ったり(手を繋いだり?!嫉妬)、スタバで買ってきたコーヒーを片手に穏やかな時間を過ごしていた。

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彼ら(彼女ら)に声をかけると、まず初めは警戒した顔でこちらを見る。もしくは目線を合わせてくれない。それが日本人の標準の反応なのかもしれない。シャイな日本人だ。奥ゆかしさを美徳する僕ら日本人。

それでも僕はめげずに趣旨を説明する。「100人のお写真を撮っているんです」と話すと、彼らの表情は急に緩む。そして少々困った顔をしながらも、恥ずかしそうに写真の承諾をしてくれる。(みんなありがとう。本当に)

僕は嬉しい。なんだか信頼されてくれているような気がするからだ。この人なら写真を悪用しなさそうだと判断され、笑ったり、寝転がったり、無防備な写真を撮らせてくれるんだ。おまけに、マックのポテトやチキンを初対面の俺に食べさせてくれる人もいる。おいしかったよ。ありがとう。僕は嬉しい。嬉しい。嬉しいんです!!(バカデカボイス)

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ここで、僕が考えなければならないのは、MIYASHITA PARK特有の「ゆるさ」の正体はなんなのか、ということだ。ここでいう「ゆるさ」とは、この公園にいる彼ら彼女らが共有している「穏やかで寛容な空気感」のことを指している。

非常に曖昧で感覚的だが、肌で感じ取れるほどに、ここには落ち着いた空気感が漂っているのだ。

その空気感を試しに、「集団的寛容」と言い換えてみる。つまり、宮下パークにいる人たちをひとつの集団と捉えたとき、構成員が共有している寛容な空気感のことを言っている。

僕が写真撮影という活動を通して得たのは、渋谷センター街と宮下パークの写真許諾率の違いだ。写真許諾率は、そのまま寛容さの指標にもなりうる。

ではもし仮に、写真許諾率実験で、宮下パークの人たちが他の場所の人たちよりも寛容であるということが立証されれば、また新たな問いが生まれてくる。

「Chillな空気感・感情」は、いかにして醸成されるのか

というリサーチ・クエスチョンが立ち上がる。

曖昧で感覚的な使われ方をする「Chill」というものが、一体何に起因するのか。公園の建築デザインか、照明やベンチ、芝生などの配置か、個々人の状況や心情に大きく左右されるのか。きっとあらゆる因子が複雑に絡まってはじめて、「Chillな気持ち」が醸成されるのだろう。

今後は、質的なフィールドワーク、参与観察も交えて、この問いを明らかにしていきたい。

あぁ、終盤の真面目な話をここまで読んでくれた方には、ぜひ焼肉を奢りたいものです。ありがとう。よかったらコメントしてね。嬉しいから。

最後に、いくつか宮下パークの雰囲気を捉えた写真を載せて、この記事の筆は置こうと思う。

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