見出し画像

都会的な自助は不透明な時代では使えない:田舎的な共助こそ必要

母子家庭というのは貧困を余儀なくなれることが多いのでありまして、私の場合も例に漏れず、母はいつも祖母から借金をしておりました。
少なくとも自分の母親の例を見る限り、金銭感覚はだらしなかったのではないかと思うのですが(そんな母親を見て育ったからこそ私は金を貯める気質になったという・・・)、昨今の母子家庭貧困の話を聞くに、何故実家に帰ると言う選択肢を取らないのか、不思議に思います。
何というか、やたらと自助にだけ任せて生きようというのが、更に自分と子供を追い込んでいるように見えるんですよね。
「お前に何が分かる!」
と言われそうですが、これでも幼少期はガスと水道が止まる経験してるし、一日で一番美味しい食べ物は学校給食、晩御飯はカップ麺をすする毎日という幼少期を過ごしているので、母子家庭の貧困などというものは実体験として持っております。
まぁ私の母親なんて3回離婚してますし、傍から見ても倅の私から「ちょっとだらしない人なんじゃないの?」というものがあって、これは本人も認めているところであります。
それも4回目の結婚では真面目な人との再婚となり、安定した人生を送れています。その上で「裕福でなくとも不幸にはならない生き方」って言うのはあるのではないでしょうか。今回は都会的な生き方の限界性について考えてみます。

💰収入的には今も裕福とは言えず

実は実家の収入も、今もってそこまで裕福にはなってません。母も再婚相手も今は正規雇用ではないし、貯蓄はそんなに持ってはいないです。投資なんて勿論してません。貯蓄率は今や私の方が断然上なのです。
しかし、実家の面々と私、いまどちらが幸福度が高いかって言ったら、多分実家の面々だと思います。母は近所付き合いとか、それこそ再婚相手の家族との付き合いは面倒がるタイプですが、かと言って別に姑との仲が悪いわけではないので、心配事はあれど、それなりに今は幸福やと思います。

🏠共助があれば自助より幸福度は上げられる

これはですね、ひとつ理由を挙げるとすれば、自助で生きるか共助で生きるかって違いがあります。
実家は埼玉で、決して田舎とは言えないくらい人口規模のある街ですが、それでも埼玉はまだまだ田舎的な感性を多分に残した面はあります。北部の年配者なら、まだ田舎的な気質を持った人も多くいるんじゃないかしら?
これは母の再婚相手の家族もお節介焼きな人がいてくれた恩恵もあるのですが、そういうお節介なオバちゃんが地域にいてくれることで、共助というのが機能していたのです。
まぁお節介なオバちゃんは地域の回覧板のバトンとか頼んできたりもしてますね。それを「面倒」と思って避けるのは楽かもしれないんだけど、でもそれって「いざ困ったら誰にも助けを求められない状態になるんじゃない?」っていうことでもあるんです。
振り返ると母子家庭の時って、正に「誰にも助けを求められない状態」にあったのでして、そら貧しくもなりますよ。
生活保護?
基本的に申請しに行ったところで「まず親御さんを頼れないですかね」って言われて追い返されます。これを「役所の対応は冷たい」って思うかもしれないし、実際、小田原なんかでもジャンパーの件が炎上しました(小田原は北条五代の治めた地なのに・・・)。まぁ小田原は全国的にも財政健全度が高い自治体なんですけども、高齢化率の高い自治体は割と火の車です。
財源には限りがありますし、金融にフリーランチなんて無い以上、財政を健全に保つこともまた、地方自治体に求められていることでもあります。
まぁ厳密には生活保護も、自治体職員が生活保護法に違反して申請を拒んでいるケースは多くあります。
ともあれ、自治体としては財政を健全に保つためにも、公助に頼る前に共助でカバーして欲しいと考えるのは、自然っちゃ自然な考えなのです。

画像1

生活保護の支給は年々増加していますが、これは都市化と単独世帯化の副作用とも考えられます。多分、70年代以前っていうのは、まだ東京でもサザエさん的な社会が作られてたんじゃないでしょうか。
良くも悪くも、あのように家族が1つのちゃぶ台を囲んで飯を食い、ご近所さんとの付き合いがある内は共助というものが生きてたわけです。あまった米貰ったりとかね。でも、今の東京でそういう共助的なものって殆ど無くなったでしょう?

ここで南紀に移住した増山さんの東京の変化を見てみましょう。

「近所で赤ちゃんを抱っこして歩いていても、我関せず。そもそも、挨拶さえ返ってこない。昔を知っているだけに、この変化には心底がっかりしました。悲しさ、腹立たしさ、時代の流れなのかな?という諦め、色々な思いが込みあがったのを覚えています。」

ご出身が葛飾区ですから、こち亀の両さんみたいなイメージのある区です。
多分、昔の葛飾区って言うのは正にこち亀の世界だったんでしょうね。この葛飾区の変化一つを取っても「人間の孤立化⇨生活保護申請の増加」に繋がっていくわけです。
だんだん生活保護云々に話が逸れてしまいましたが、別に何も金銭の支援に限らず、ちょっと余った米を貰えたり、魚を分け合ったりできるだけで、気持ち的には救いが出てきたりするのです。そして自分に余裕が出来たらお世話になった人にお返しする。この人と人との繋がりが共助であり、この繋がりがあるだけでも、金銭的な豊かさはあまり無くても、心には余裕が生まれますし、幸福度もアップするでしょう。都市化が進んだことで、いま、ここが最も危ないポイントとなっているのです。

🏡自助に限界がある以上新たな共助の仕組みが必要

かつてよく議論していた右派のTwitter政治アカウントが「パトリオティズム(地域愛)は健全な民主主義を保つのに必要だ」と言っていたのを覚えていますが、これには私は全面同意をしています。
Twitterで「日本が好きだ!」とか言ってる手合いほど日本のことを全くわかっちゃいないし、単に「日本が好きと言わなきゃいけない義務感」で「日本が好き」と言うてるだけなんじゃないかなと見ています。
だからとて「今の日本が貧しいのは国のせいだ!」とばかり言う意見にも全面的な賛同はし難い。なんでも「政府が悪い!」で済むほど貧困問題も単純には行かなくて、都市化が進み過ぎたことでコミュニティが崩壊し、共助が崩壊したのが最も深刻です。こればっかりは国が悪いとは言い切れないし、方や「日本を愛してます」と言ってる人間も見えてないと思うのね。まぁこれがTwitter政治の限界でもあるんですけどね。
尤も「共助」なんて大げさな表現使わなくても、普通に余った野菜分け合ったり、ちょいと近所で集まって一緒にご飯作ったりと、そんな気軽なご近所付き合いできれば、それが生きる希望になったりもするんですけどね。
もちろん生活に困窮したら生活保護の申請はした方が良いし、需給できるものは公助で需給した方が良い。でも、それだけじゃ幸福度までは上がらんでしょ。
結局、最後の最後で救いになるのは人と人との繋がりであり、縁であり、助け合いでしょう。最近は家庭事情も複雑化してるケースも多いんで、役所的な「まず実家帰るの考えて」的なのは通じない場合もあるんだろうけど、助けたい人と助けられたい人のマッチングなんか出来たりすると、少しは生きやすい社会になるのかもしれませんね。

この記事が参加している募集

お金について考える

ご一読ありがとうございます。お読みいただいた記事がもし無料、あるいは価格以上の価値があると思ったら、フォローならびに、サポートいただけますと幸いです。