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大林宣彦監督と尾道と私

2020年4月10日、大林宣彦監督が亡くなった。かれこれ20年以上、ずっとファンであった。ここ数年はがんと闘いながら映画を撮っていたので、ある種の覚悟は持っていたが、ついにその日が来てしまったかという感じで、悲しみに暮れている。

私は、周囲の人と比べると映画鑑賞はかなり少ないので、洋画邦画を問わず映画について語ることは普段ほとんど出来ないが、唯一の語ることができる例外は大林監督の尾道作品である。訃報を受けて、何か記録を留めなくてはという衝動にかられ、原田知世の「時をかける少女」の歌声を無限ループした部屋の中で、思いつくまま文章を書いてみようと思う。

大林監督とその作品、そして尾道を明確に認識したのは、大学1年の時である。前期の金曜日の5限、週の最後に当たる科目として、教養科目「映画の世界」というのが開講されていた。言語文化部の所属で、ほとんど英語の科目しか持っていない鈴木右文先生という方が、なぜか英語の出る幕の全くない邦画のこの授業を持っていた。選択科目だったが、結構な受講希望者があり、確か抽選で受講できた記憶がある。自分は何か目的意識を持ってこの科目を取った覚えはなく、週の最後を映画という自分の専攻(薬学)とは全く関係のない教養科目で締めるのも面白いなぐらいのノリで、恥ずかしながら大林監督の事もよくわからず申し込んだのだ。「映画の世界」と言っても、全て大林監督の作品に関する講義であることは後で気づいたくらいである。しかし毎週授業で映画を見せられるうちに、徐々にその魅力にハマったのである。

講義は映画視聴が中心で、尾道三部作と呼ばれる「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」、そして新尾道三部作のうち当時までに公開されていた「ふたり」「あした」の2作品を含めた計5作品をパソコン室のようなところで、二人で一つのモニターを使って視聴した。講義の序盤と終盤に鈴木先生の作品解説があり、もう一人の外部講師の先生が、作品の演出部分について説明してくれた。左顔を映す時と右顔を映す時は偶然ではなく、そこにこんな演出の意図がある、などと、若干玄人的な解説も聞けた。7月最後の講義の時に、夏休みの課題が出され、大林作品について各自レポートをまとめて休み明けに提出するように言われた。期末試験はなく、レポートが唯一の評価項目となっていため、私はずいぶん気合いを入れてレポートを作った。まだパソコンが普通に持てなかった時代、確か全部手書きで40ページくらいの大作だった気がする。おかげさまで100点をもらった(ちなみに、同級生は結構「不可」食らっていたので、決して甘くない先生だった)。レポートを書くにあたって、尾道三部作以外の作品もレンタルビデオ屋で大量に借り、図書館で大林監督の著書、雑誌のキネマ旬報、さらに原作である赤川次郎氏の小説を読み漁った。その過程で私は大林監督とその尾道作品がずっと気になる存在になった。

大林監督に尾道を舞台にした映画が多いのは、監督が広島県尾道市の出身であることが大きい。尾道は昭和の香りを存分に残すレトロな街である。「三部作」に出てくる尾道の風景はどれも美しく、私は映画を通じて尾道に惹かれた。それ以来ずっと尾道に行きたいと思っていたが、なかなか行くことは叶わず年月が流れていたが、2013年ごろに会社の同僚と小旅行をすることになり、どこに行こうかという話の時にすかさず「尾道!」と叫び、願いが叶ったことでいい歳して相当はしゃいだ。当時の写真がどこかに行ってしまったのだが、「転校生」で一夫と一美の体が入れ替わる石段を登り下りしたり、二人が相談する喫茶店「こもん」に入って二人が食べていたワッフルを注文するなど、完全にミーハーな行動を取った(一緒に行った連れの同僚二人は少し引いていたと思う)。作品公開から数十年の年月が経っているにもかかわらず、映画に映っていた景色や建物はほとんど残っていて本当に嬉しかった。実際に旅すると実感するが、尾道は「坂の街」であり、再開発などが物理的に容易でないことが幸いしているのかもしれない。

大林監督はある種の様式美にこだわりがとても強い人だったと思う。3歳の頃から映画に興味を持ち、医者である父親の影響を受けて人の生死や平和に強い関心を抱き、人が抱く叶わない憧れを映画に投射し(自分に適切な表現力がないのが悔しい)、ファンタジーの世界を作品に創り出した。その作品群の中で、私が未だに感傷に浸ってしまうのが「時をかける少女」である。「時をかける少女」は当時新人だった原田知世がヒロイン(和子役)に抜擢された作品である。未来から来た不思議な少年と出会い、彼の力でいろんな体験をしつつも少年に惹かれていくのだが、少年が未来へ戻ることになり、二度と会えなくなるばかりか、彼との出来事に関しても強制的に記憶を消されてしまう。最後気を失って和子が倒れてしまい、その後当時のことは何も思い出すことなく大人になっていくという話である。映画の中で、晩年の上原謙と入江たか子が息子夫婦を交通事故で亡くして、お昼のお茶を静かに過ごす残された老夫婦役として出てくる絵と会話を聞くと何度見ても涙腺が崩壊する。この作品は全体的に甘く、物悲しい。だから、映画が終わるとものすごく寂しい気持ちになってしまう。ただ、作品が終わった後、エンドロールが流れると、バックで原田知世やキャストが主題歌に合わせて歌い、NG シーンが流れる。一気にここで虚構から映画館という現実に引き戻されるのだ。これは物語の世界の話だったのだ、と頭がリセットされて、物悲しい気持ちを引きずらずに日常に戻ることができるのだ。これは大林マジックだと思う。彼だから出来る演出だった。

部屋に流れる原田知世の歌声で聞こえてくる歌詞、「あなた私の元から突然消えたりしないで、二度とは会えない場所へ、一人で行かないと誓って」。今大林監督に対してまさにそれ。駄文だと自分でわかっていても、書かずにいられなかったのである。久しぶりに監督の尾道三部作と新尾道三部作を見返してみたくなっている。




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