反応の螺旋


1.人間の行動はほぼ刺激と反応

皆さんは、「あの時ああしておけば?」と思ったことはあるだろうか?
まあ、あえて問うまでもなく誰だって一度は思うことだろう。
しかし、ここで一歩進んで、
「何故、あの時はああしたのか?あるいはしなかったのか?」と考えてみると一つや二つ、理由に思い当たるのではないだろうか?

私の友人で、これをさらに進めて
その時にやったこと→それをやるときに考えたこと→その考えのきっかけ→そのきっかけに合うまでの行動→と言った感じで
ずうううっと過去に遡ることで人生を振り返ることをした人がいる。

結果、
今の自分こうなのは、ずうっと昔に決まっていた
と言う結論を得たそうだ

何かの原因があって、何かが起きる。因果律と呼ばれているが、これは人間にも当てはまる。

人間の脳も物質であるので、物理学の法則にしたがう。
神経からの入力にニューロンが反応し、出力する。

そう考えると

人間の脳は今のAIの基盤になっているニューラルネットワークと本質的に何がちがうのだろうか?

と言う疑問に突き当たる

2.心は本当に脳が規定するのか?

ところで、皆さんは犬や猫を飼っているだろうか?
私は実家で犬を飼っていた。

とにかく可愛い子で、いつも家族を和ませる存在だった。

そう言う意味で、私ら家族はうちで一番仕事していると言っていた。

尻尾はほとんどない子だったので、うれしいときはお尻を振る感じになるのだが、それ以上に口角を上げ笑うのである。

この笑顔は暑いときの喘ぎとは明らかに違うもので、飼い主が親バカだからとかそういう話ではなく、やはり絶対に笑っていたと思う。

避妊手術をして、その後数か月は笑顔を見せなかったので、本当に不愉快な時は絶対にその顔はしない。

しかしである。獣医さん曰くそれは笑顔ではないと言うのだ(泣)

上の記事を見ても飼い主の笑顔をまねているからと言うのだ
つまり、犬の笑顔は心の内からの発露ではなく、ただ単にパターンに過ぎず、状況にあわせたある種のパターン的反応と言うことである。

いや、しかしである。
そういう解析的手法を取るならば、人間の表情を読む能力だってパターン認識に過ぎず、表情だって状況に合わせてパターン的に出す反応に過ぎないんじゃないの?と思う。

しかしだ、ここで「人間の場合は」大脳の何たら領域が感情を司って何たらと言う反論をするものもいるだろうが、
そういう性能が違うから論は根本的本質的な回答にはなっていない。
所詮、ある入力に対する分岐の数が増えるとかそういう話に過ぎないからだ。

そう、科学的に「だけ」現象を理解しようとすると、味も素っ気もない実につまらないことになる。

また、脳科学の観点からみると、爬虫類が懐くと言うことはないらしい。

脊椎動物の脳

上図は脊椎動物の脳をならべたものである。魚類→両生類→爬虫類→哺乳類と言うのが進化の定説である(鳥類は爬虫類から分岐しているので、哺乳類とは祖先関係ではない。)

この順で見ると右下凡例における上部にある大脳などが発達することが進化と言うことになるらしい。大脳が未発達な魚類、両生類、爬虫類の脳は細長い。
この脳からは機能学的に感情が出ないようである。

しかし、本当だろうか?

いや、これは流石に懐いてないか?

これを懐くと言わず馴れと言うのはやっぱり変だと思う

何故なら、あきらかに我慢とかそういう話ではなく自ら向かっているからである

3.刺激と反応こそ心の檻

ところで、自分たちのやっている合気道では、相手の攻撃に対して反応しないという練習をします。(ところでが多すぎてすまぬ)
これは世間一般の合気道に対するイメージとは真逆に感じるかもしれないが、相手の攻撃にとらわれた瞬間、相手のタイミングでしか動けなくなる。
これは不自由であり居着きであり、結果的に衝突が生じる。
こちらが相手の刺激に反応すると、相手もこちらの反応に対し反応し
双方が対立に対して居着いてしまう。
計算のしあい、位置の取り合い、最後にはスペック勝負になる。
勿論、真剣勝負になればスペック勝負になるのは当たり前だが、

心まで反応の螺旋に明け渡していいのだろうか?

4.きっと死ぬのが怖かったから、自分が何者なのか考えたはず

武術や武道の本ってやたら哲学的だと思ったことはないだろうか?
ただし、これはその原点をよく考えれば当然なのである。
武術は侍の嗜みであった。
日本において、侍の本当のガチの真剣勝負と言うのはその名の通り、
真剣を使った勝負である。
実際に、これは往時ですらそうそう頻繁に起きることではなかったと思うが、帯刀してた者が剣術や武術の練習をしてたとき、今の意識とは違って

かなり死を意識してたはずである

また、戦時中に大日本武徳会で合気道を平井稔先生からならってた兵隊達はどうだろう?

こんなのはもう言うまでもない話である。

さて、ここからはあくまで私の考えなのであるが、
実は脳も身体もそのほとんどの部位は機械的物理的なものにすぎないのではないか?
ほぼアバターと言っていいのではないか?と思っている。
しかし、なぜかここには意識と言うものがあって、

その意識は

刺激と反応、神経伝達と言ったこの世

うまく言えないがあの世的なもの

の間を行き来しているのではないだろうか?

すくなくとも、稽古中は反応している自分と言うものを観察することになる。

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