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032. 「〇〇しない」「〇〇しなきゃ」という決意より大切なこと/ちいさな今に祝福を

「今日こそスマホは見ないようにしよう」「今日こそは1日イライラせずに子どもと笑顔でごそう」「今日はぜったいに甘いモノは食べないし、コンビニにも寄らないぞ!」

そんな決意を、もう何度したことだろう。

そして反対に、「やらなきゃいけない」「今日こそぜったいにやるぞ!」と思っているのにどうしてもやれないことがあるとき。

そういうときの対処法としてよく聞くのが、「心が満たされてないから、まず自分を満たそう」というもの。ではそれは、なにが満たしてくれるのか?

わたしの答えは、「今を生きている実感を少しでも感じること」だ。

今、目の前にどんな景色が広がっていて、どんな香りがして、どんな音がして、どんな感触なのか。

「なにを達成してる」とか「なにを手に入れている」とかそんな大きなことでなくていい。過去でもなく未来でもなく、ただ目の前の「今」を感じること。

「○○しなきゃ」あるいは「〇〇しない」という心理状態にあるとき、人の心は自らの身体の中心軸からはみだしてしまっているのだと思う。

この状態を表すものとしてわたしがよく思いだすのが、漫画『バガボンド』でよく出てくる心理描写を表すシーン。


「斬りたい」「勝ちたい」「戦いたい」
主人公の宮本武蔵がそんな自らの欲にまみれるとき、彼の内から出てくる仁王とも魔物とも思われる生き物。

その一方で、足元の蛙を踏みつけてしまっていることにさえ気づかない武蔵。


「〇〇しなきゃ」「〇〇しない」という心理状態も、これと同じ状況を表しているのではないかとわたしは思う。

「あれができてない」「これもできてない」とできてないことにばかり目が行き焦っているとき、人の心は身体より先に進んでしまっている。そしてその一方で、目の前の、あるいは足元の「今」がまったく見えていない。

「やらなきゃいけないことはわかっているのに、どうしてもできない」あるいは「もうこれは絶対にやめよう」というときも、きっとこれと同じ。

子どもの行動でイライラすることが多いのもそうだろう。頭のなかではすでに先の段取りを考え、すでにそこに辿り着いている算段なのに現実がついてこないことについイラ立ってしまう。

子どもの頃は心と身体は常に一緒にいて、常に自分のまんなかを生きれていたのに、大人になるにつれて心が容易に身体から離れてしまうようになってしまうのはなぜなのだろう。

それはきっと、大切な今にもう一度出会いなおすため。
一度離れて、つまずいて、失敗して。自分にはなにが足りないのか探して。その道のりを経てやっと気付けることがあるのだろう。

今を生きている実感を、少しでも感じること。そしてそのちいさな「今」を祝福すること。












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