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029. 「日常は小さな奇跡であふれている!」ということを思い出させてくれたのはわが子だった

コロン...
幼稚園から帰ってきた息子のおしぼりケースのフタを開けたら、なかから小さなダンゴムシが1匹でてきた。それを見て、思わず笑みがこぼれた。

娘のほうは小さな手に木っ端をにぎりしめて、「これ、かあちゃんに おみやげ!」とにこにこ顔でわたしてくれる。

ポケットから石っころ。桜の実。どんぐり。

よくある「幼児的あるある」として括ってしまえばそれまでの一幕だけど、「そういうもの」として、型にはめた目線で見ると取りこぼしてしまうことってたくさんあると思う。

こどもは小さな世界の奇跡を見つける天才だ。
なにげないいつも通りの朝でも、かじったパンのかたちがおもしろくて笑い、卵を割る瞬間をしんけんにながめ、珈琲と牛乳がまざるのを見て「いろが かわった!!!」と、大発見のよろこびを爆発させる。

あったよなぁ、わたしにもそんなときが。

身の回りに起こるすべてがふしぎに満ちあふれていて、ひとつひとつの出来事を、まるで水を飲みほすように吸収していた時期が。
日曜日は魔法のようにすべてがキラキラして見えたし、夏休みは永遠のように続くわくわくな冒険の日々だった。

ずっとずっとそんな日々が続くと思っていたのに、いつの間にかその魔法が切れて。

「慣れる」ということは、人間が社会のなかで生きていくうえで必須機能だし、それがあるかあらこそ「成長」というものに結びつくけれど。

なにかひとつに慣れるたびに、なにかひとつ成長するたびに、大切ななにかを置いてきてしまっているような感覚がずっとあって、でもそれがなんだかはよくわからなくて。

ずっとずっとなにかが欠けたような、足りないような気がしていた。

「今が現実で、幼いころのあのときが魔法のような日々だっただけ。それはあの年齢特有の幼さが作り出す特別な状況で、成長すると徐々に『通常』になっていくものなんだ」と、思っていた。けれどそれは、もしかしたら逆なのかもしれない。

幼かったあのころこそが「通常」であり本来の人としての姿で、大人になった今の方が余計なものがくっついてしまっている状態。

だとしても、戻ることはもうできない。
それでも「あの頃」と「今」を同居させることはできるんじゃないかな。

分断した目で見てしまえば、「あったあった、そういうとき。」で終わってしまうけど。

あの頃のわたしも、今のわたしも、ひと続きの存在だから。
「あるあるだよね。」なんてわかったふうに言わないで、一緒に感動できる心を少しでも味わいたい。

「今を楽しむ」というのはわたしにとっては少しニュアンスが違って、「今を味わう」というほうがしっくりくるんだ。

「これは楽しい」とか「これは楽しくない」とかじゃなくて、日常にあるすべてを味わえるように。小さな奇跡にあふれる今に気づけるように。




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