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江國香織『流しのしたの骨』

勧めてもらった本を読んで、20分で思いつきの感想文を書く遊びをしている。

今日は江國香織の『流しのしたの骨』を読んで。




実家には、「お茶を淹れる」という習慣があった。朝は紅茶、食後は緑茶かほうじ茶。日曜の午後はコーヒー。たまにお抹茶。母親が好きだったからか、リビングには結構な数のコーヒーカップやマグカップがあった。店でもやるんかってくらいあった。抹茶を淹てるのは祖母。子どもの分には少し砂糖を加えてくれたことをよく覚えている。茶碗をくるくる回して得意げになった。

正直そんなに仲のいい家族ではなかったので、お茶を片手に語らう午後、みたいな時間を過ごした記憶はあんまりない。

「コーヒー!」

と呼ばれたらわらわらとリビングに集まり、カップを手にすればまた各々の部屋に帰っていく集団であった。


 大人になりひとり暮らしをするようになったセメントは、お茶を淹れる習慣がなんとなく続いている。朝は紅茶。眠い日はコーヒー。人が来たらフレーバード。暑い日は水出しで、カフェインを摂りたくないならそば茶、寝る前だったらハーブティー。

ひとりなので、どちらかというと飲みたいものというよりは、習慣と機能で飲むものを選んでいる感じの方が強い。私は自宅で飲むコーヒーのことを、目を覚ますための苦い汁だと思っている。それでも、豆を挽いてペーパーフィルターで淹れる。習慣ってこわい。私の淹れた苦い汁を飲んだ昔の恋人が、あまりに苦汁だったのか、セメントの分だけ淹れ直してくれたこともある。きちんと淹れるとコーヒーは美味しいし、私は周りに甘やかされている。

『流しのしたの骨』に登場する幸福で仲のいい宮坂家も、頻繁にお茶を淹れる。朝ごはんには紅茶。こと子が遅く起きてきた朝にはお母さんがコーヒーを淹れ直してくれる。大事な話をするときにもお茶を用意するし、眠れないときはホットミルクをあたためにリビングへ降りる。

宮坂家のお茶は、なんというか、うちの実家とは用途が違うのだなと思った。先に団欒があり、先に集合があり、添え物としてお茶がある。あんなに場面々々に合わせた飲み物の種類があるのに、とても自然で、この家めっちゃ飲み物の選択肢あるなと思わせない。添え物だから。それがなんだかそれが幸せの象徴っぽくて、羨ましいなぁと思ってしまった。うちの実家では、飲み物の方が主役だったから。


とはいえ、飲み物を目的に集まっていた実家の人たちも、思い出してみれば幾分の交流はあった。これ豆なんなのとか、お菓子あるよとか。幾分っていうか、すごく最低限だな。大丈夫か。

しかし普段団欒のない家庭としては、お茶を受け取るほんの一瞬コミュニケーションがあるだけでも、今思えばすごくいいことだったのかもしれないですね。受け渡し時数秒のコミュニケーションを大切に。ファストフード店のマニュアルか。もっと言い方あるだろ。

家によって役割はことなるけど、お茶が主役でも、人をつなぐ場面はあるということで。暑くなってきたので、水出しダージリンが美味い季節ですね。

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