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折り返し

今年も半分が過ぎようとしている。如何せん月日の流れというのは年齢を重ねるごとに早くなる気がしている。光陰矢の如し。だからこそ今を大事に生きないと。6月は父の日があった。父が亡くなってもうすぐ20年目になる。ある意味で節目の年でもあるため今思うことをほんとはYouTubeで撮影したかったのだけれど過ぎてしまった為ここに書いていく。

過去のnoteにも書いたとおりに20年前の1月、病院で父は息を引き取った。当時は大嫌いで軽蔑さえもしていた人に今生きていても寄り添える自信はないし、向こうの今の姿の私を受け入れるかはわからない。なにせ九州の田舎産まれ、その世界しか知らない父が今の容姿を受け入れても、きっと心からは喜んではくれないと思うから。

私はきっと彼が生きていたときから自身は父親にはなれないと思っていた。同じ家に住んでいるのにどこか疎外感や異物感を感じていたし、なにより寡黙であまり話すタイプでもないから子どもながらに愛されているのかさえもわからなかった。
よく見る姿は野球を見ながらお酒を飲んで、どこか1人ポツンと孤独の中にいるイメージだった。自分の居場所がなかったからかたまに酔いに任せて声を荒げる時もあった。母との口論で手が出るときもあった。それを見て私は母が殺されてしまうのではないかとワンワン泣いていた気がする。

そして20年前、車で煉炭を焚いて寝ている父の姿が発見される。あぁやっぱり愛されてなかったのかと思った。母や父方の祖母、そして私たち子どものことを考えずに自らの死を選んだのだから。
当時は泣かなかった。いや、泣けなかった。軽蔑すらしていた人の突然の死に気持ちがついていけなかったのかもしれない。母は怒りと悲しみどちらもあったようにも見える。それから20年、今私はまだ生きている。そして今だから思うこと。

死んだ人間の理由なんてその人にしかわからない。だからこそ鬱病だったのではとか家族で話していたが真実は闇の中だ。それでも、母は最期まで父方の祖母を看取った。本当は離婚すら覚悟していた母なのに、父方の他の兄弟が祖母の面倒を拒んだから。自分たちの親なのに…と思った。身勝手な大人を目の当たりにした気がする。だからこそ今思うとあくまで他人の親を看取るまで面倒みるのは凄いと思った。私を女手一つで育てながらである。

もしこの文章が仮にでも亡くなった方に読めるのなら、母にだけは感謝の気持ちを忘れないでほしい。もちろん抜けてたり嫌なとこもあるけど投げ出さず今も生きてる。父の死のお陰で私も自ら死を選ぶことはしないと決めた。性転換は別であるが。
きっと理想を求めすぎてたのかもしれない。私も母も。お酒に呑まれ、仕事でお金もあまり稼いで来る人ではなかったけど母はそれでも愛してたのかもしれない。

つい最近同じような男に散々傷つけられてはひどい振られ方をした時に母から連絡あって話してたらあれだけ怒っていたはずの父への気持ちが和らいで、むしろそれでもいい人だったと話した母が印象的だった。世話焼きなのは母譲りかもしれない。その姿を見てるからお金にだらしなくなく仕事もきっちりしていて女たらしでない人を選びたかったのに。親子なのか。

20年たっても私は変わらないのかもしれない。相変わらず人も苦手だし、男性なんてどう接していいのかさえもわからない。それでも、なんだかんだ生きててなんとなくやれてる。
あなたの思うような子どもにも人生にもなってなあたかもだけどそれはお互い様。
そんな経験や考え方にさせてくれてありがとう。感謝してるとこもあるよ。
私は私の人生を生きるよ。近いうちお墓参りも行かないとね。なんか呼ばれてる気がしてるから。

上手くまとめられなかったけど、ここまで生きててよかったと思える。あと半年、もうすぐ性転換も考えているからこそ思う命の尊さと今の時間。その先はまだ考えてはないけど1度全てをリセットしたいと思ってる。それでもご縁があったら生まれ変わったときのほたるもよろしくお願い致します。

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