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【アルギュストスの青い翅】第30話 紐解かれる夏の始まり

 俺たちの頭上高くに輝く月は翳り始めていた。満月が痩せていく。それは二人の時間が終わっていくということだ。船着き場まで送ってくれたヴィーが俺を真っ直ぐ見つめて言った。

「J、時間が|《ほど》解けていくから……」
「ああ……」

 ヴィーもやっぱり知っていたのだ。なにがどうしてどうなっているのか、俺にはうまく説明できないけれど、俺たちが今こうして過ごしている時間は、もう間も無く|《ほど》解けてちぎれて離れていく。それはどうしようもないこと。どんなに願おうとも変えられないことだ。
 だから俺は、ちぎれていく悲しみではなく、俺たちが結びついた奇跡で気持ちをつなぎとめることにした。本来なら出会うことのない俺たちが、月夜のアルギュストスに導かれて出会った日々に、思いの丈を詰め込んだ。そんな美しい夢は他にはない。

「J、ありがとう……さよなら」
「ああ……」

 やっぱりそれしか言えなかった。言いたいことはいくらでもある。言い出せばきりがないだろう。でもそれを言ってしまったら、大事なものがみんな時間の向こうに流されてしまうような気がして、俺はぐっと内側に、音にならなかった言葉たちを押し込んだ。

 微笑んだままのヴィーを乗せて、舟がすうっと運河に退いた。途端、急になにもかもが心配になって、やっぱり離すまいと思って必死で手を伸ばそうとした。だけどその時、ヴィーの微笑みがぐっと深まって、あまりに綺麗で動けなくなった。

「J、僕も君にプレゼントを贈るよ。楽しみにしてて」
「え? 贈るって、楽しみにって……」

 俺たちが明日ここで会うことなんてないのに、ヴィーは何を言っているのだろう。馬鹿みたいにおうむ返しにつぶやいた俺の前で、答えてくれることなく、ヴィーの笑顔が少しずつ闇に溶けて……そして消えた。

 伸ばしかけていた手をそのままに、耐えられずしゃがみ込む。わかっているはずだったのに一人残された途端、大きな空虚感に押しつぶされそうだった。俺は目を凝らしてヴィーの消えた先をじっと見つめた。闇の中には、時折光る水面が見えるだけで、大切な友人の姿はもう、いくら探しても見つけることはできなかった。

 船着き場に寄せては返す波の音だけが繰り返される。ちゃぷんちゃぷん。

(ああ、この音はヴィーの部屋にも聞こえていたっけ……)

 なんだか長い長い夢を見ていたような気がした。それはあまりにも美しい夢で泣きそうだった。それは……、誰も知ることのない秘密の夜。
 でも、ルコントじいさんだけは知っていてくれる。それだけではない。じいさんは俺たちを救ってくれた。すごいことだと改めて感じる。じいさんのおかげで、俺たちの大切な時間は流されることなくつなぎとめられたのだ。永遠の中に刻み込まれた。

 ルシーダを弾けば、あの時間がいつでも戻ってくる。アルギュストスに向き合えばいつだってあの瞳を思い出せる。
 そして俺は、自分がディカポーネであることを今日ほど嬉しく思ったことはない。ディカポーネとして誇りを持つことは、ヴィーとの時間をなによりも大切なものとして受けとめたということで、それはすなわち、俺たちの過去と未来をつないでいくということなのだ。

 それからの夏休みは、いつもと変わらないように見えてそうではなかった。急に研究室に顔を出して親父の話を真剣に聞き始めた俺に、周りのみんなは最初こそ驚きはしたものの、すぐに温かい微笑みでもって迎え入れてくれた。
 俺よりもでかい体をした従兄たちは、恐ろしいほどの力で俺をもみくちゃにしながら「チビ、この野郎、待たせやがって」と叫んでいたし、俺と同じ大陸の色をした母さんは「あら、ようやくエンジンがかかったわね」と朗らかに笑った。

「ディカポーネの男はね、一旦決めればあとはまっしぐらなのよ。迷いなく自分の道を掴み取るのよ。この先、あんたはあんたの思うようにどこまでも進めばいいわ」

 母さんの言葉に、今度こそ素直に頷くことができた。そんなこともみんなヴィーに出会えたからだ。ヴィーと向き合って励まされ、自分を想ってくれる人に応えたい、そう思えるようになったからだ。色々と恥ずかしいから、その辺の詳細を今は誰にも説明する気はないけれど、いつか誰かにそっと教えたいような気もする。
 そうして俺は、ヴィーとのことを思い出してしみじみする暇もないほど忙しい毎日を送ることになった。親父にあれこれ強制されたわけじゃない。とにかくがむしゃらにやりたかった。今までの分を取り戻すべくできることにはみんな参加しようと、そう固く心に決めたわけだ。

 そんなある日、親父に呼ばれた。

「実はな、幼馴染の家に興味深い部屋があるんだ。見てくれって頼まれてな。どうだ、お前もくるか?」
「俺が?」
「ああ、研究室ばかりが経験の場ではないからな」

 親父の幼馴染というのは、大きな運河沿いに豪邸がある由緒正しき家柄のご子息で、もうずいぶん前にこの町を離れた人。家はそのままにしてあって、老朽化が進んでいるため解体するかどうかという話になり、しばらくぶりに町に戻ってきたのだ。
 それで家の中を歩いてみれば、あれもこれも懐かしくて、なんだか愛しい気持ちが大きくなり、できる限り手を入れて夏の間の避暑にでも使おうかということになった。
 けれど、改装するにも半地下にある特別な部屋には入ることができなくて、それを親父に見てほしいということだった。

「でも、なんで親父が? 大工とか建築家じゃなくて?」
「毒だからだよ。そこはな、毒の部屋なんだ。そんなところに好き好んで入る奴がいるか? 俺以外には思いつかないって連絡してきたのさ。確かにな。ディカポーネのためのような案件だ。と言って、データなしの現場にいきなり未経験者を送り込むのもなんだしな……。だから、無理にとは言わない。気が向いたらでいいからな」



第31話に続く https://note.com/ccielblue18/n/n349bc7ca99e6
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第1話はこちら https://note.com/ccielblue18/n/nee437621f2a7


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