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【大人の童話】真夏の四ツ辻

 その夏、日差しはいつもよりも白く強く、古ぼけた日傘ではとても防ぎきれる気がしなかった。私は内庭に向いた自分の部屋からぼんやりと外を眺める。 
 身も心も疲れていた。大切な人をなくしたからだ。とてもとても大切な人、大好きな「お兄さま」。あまりに悲しくて、体調不良を理由に送る式に参列しなかった。この先の、彼の永遠の不在など、決して認めたくなかった。  
 
 父方も母方も祖父母は健在であり、働き盛りの両親や血気盛んな実の兄たちには感じることができなかったもの。命の終わり。だから考えたこともなかった。 
 そんな私に突如突きつけられた喪失感を言葉に言い表すことはできない。心の中にできた大きな空洞は寒々しくて虚しくて、それでいて鉛のように重くのしかかる。暗い部屋の中にひきこもっているせいか、それは日増しに大きくなって、やがて押しつぶされて息もできなくなり、私は表へと逃げ出した。  

 けれど外の光も優しくなどなかった。かっと目を灼いた。くすんでしまったように思う花柄の日傘を開き、私はその下で震える。無慈悲な日差しは生地を突き抜け、肌に刺さるかのようだ。

「もうすぐ誕生日だね。新しい日傘を買ってあげるよ。好きな色を考えておくといい」

 耳に馴染んだ声が、胸ときめかせた約束を手繰り寄せる。私は唇を噛み締めた。日傘……買ってもらっていない。もちろんお祝いの言葉も。その日はまだ来てもいないのだから。それなのに、それなのに。

「嘘つき。……お兄さまの嘘つき」  

 暑さなどもう感じなかった。滲んだ視界には光も届かない。堰を切ったかのように涙が流れ出す。止めるすべなどなくて、ただただ私は泣いた。きっとひどい顔をしていることだろう。行き交う人がなかったことは幸いだった。 
 やがて、私は凭れていた門扉から身を起こし、歩き始めた。少し先にある青い生垣が無性に見たかった。四ツ辻にある大きな屋敷の、ぐるりと一周綺麗に刈り込まれた生垣。今年も空が明るく晴れ渡り、緑が一段と濃さを増した頃、二人で一緒に歩いた。

「左へ行けば時間に縛られた世界、右へ行けば時間から解き放たれた世界。そんな道があったらどうする? お前ならどちらへ行く?」
「まあ、変な質問ね。こちらから見るのとあちらから見るのとではあべこべですよ。右が左で左が右で。だからどちらへ行こうと両方存在する。私は選びたいときに選びたいものを選択する、それだけだわ」
「……わがままだねえ。だけど屁理屈もここまで潔いと清々しい」

 交わした会話がさざ波のように押し寄せてくる。記憶と現実が重なり揺れる中で前へと進めば、先行く姿があった。白いブラウスに青いスカート。腕には大きな籠がかけられている。ふと、その籠から何かがこぼれた。 
 それを見た瞬間、重い体に力が入る。泣き腫らした顔を恥ずかしいと思う以上に、拾わなければ、届けなければ、そう思ったのだ。気がつけば私は駆けていた。 
 落ちていたのは白い花だった。見たこともない美しい花。きっと贈り物に違いない。こんな炎天下、早く届けなければ萎びてしまう。私は花を手に先を急ぎ、四ツ辻で追いついた。

「あの、すいません」  

 振り返ったのは見ず知らずの方だった。どこか遠方からいらした客人だろうか。鮮やかな青いロングスカートが美術館の奥に飾ってある美しい宗教画を思わせた。

「これ。落とされたので」  

 見れば籠には同じ花がどっさりで、思った通りだったと私は胸をなでおろす。

「まあ、ありがとう。暑い中を走らせてしまってごめんなさいね」

 息を整えていた私に彼女が微笑んだ。

「いえ。問題ありません。綺麗なお花が日に灼かれてしまわなくて良かった。それにしても見たことのないお花……特別なものですか?」
「特別……ええ、そうね、そうかもしれません」
「やっぱり。ああ、無事に届けられて良かったです」  

 彼女は微笑みを深めると、花を差し出そうとした私の手をそっと押し戻した。

「どうぞ、それはお持ちください」
「え? 大切なものなのでは?」
「ええ、でも良いのです。一本くらい構いません。そのようなことを咎める方ではありませんから。むしろよくやったと褒めていただけるでしょう」
「はあ……」  

 意味がわからず、私は渡された花と彼女の顔を交互に見る。

「お礼がわりにしていただけたら。その花の命は今日限りなのです。夜には散ってしまうでしょう。けれど、目を背けずそれを見届けてくださいね」  

 花を胸にした私が頷けば、彼女は嬉しそうに笑い、そこで私たちは別れた。四ツ辻を私は左に彼女は右に。 
 急ぎ家へと戻る。切り戻し、花を冷たい水に放してほっとする。薄暗い部屋の中、花瓶に挿した一輪は、まるで日差しを持ち込んだかのようだ。花びらには張りと艶があり、今日の今日散ってしまうとは到底思えない。私はその姿をじっと見つめた。 
 白。重なる白、揺れる白。甘い香りが漂い、白の中に思い出が浮かび上がる。あの時もあの時も、そう、私は白いドレスだった。過ぎ去った愛しい時間。大好きな人に置いていかれたことが、再び鋭い痛みとなって私を襲う。泣いて泣いて、また泣いて……いつの間にか窓の外には月が昇っていた。

 部屋はすっかり夜に溶け込み、花には月光が重なって、昼間以上に輝いている。咲き誇るその花に終末の影など見えない。あるのはあふれんばかりの命の力。命……。胸が締め付けられた。美しくて美しくて、ああ、なんと残酷な花か。 
 その時、はらりと音が聞こえたような気がした。次の瞬間、花は、散った。それは見事に、潔いという言葉さえ霞むくらいの勢いで、手を差し伸べる暇もないほどに。 
 しかしその茎はまだ凛と立ち、身に纏うものもないのに美しい。まるで悔いなしと笑っているかのようだ。はっと胸を打たれた。そうか、そうだったのか。私にもようやくわかった。 
 どんな時も笑顔だった「お兄さま」はきっとご自分のことをわかっていらしたのだろう。だからこそ今日に悔いなしと笑っておられたのだ。誕生日の約束も嘘ではなく、心からそう思ってくださったに違いない。そんな人に文句など、私はなんと甘ったれであったか。笑って送り出すべきだったのに、お別れの言葉さえかけられなかった自分を恥ずかしく思った。

「目を背けず見届けてくださいね」  

 それはまさに、私に必要だったこと。泣き腫らした私の顔に全て書かれていたのだろうか。それともあの方は全てを知っていらっしゃったのだろうか。そんなことありえるはずもないのに、ありえるような気がしてならなかった。あの花はどこへ、誰にお持ちになったのだろう……。 
 お庭で育てているとおっしゃったが、こんな美しい花が咲く庭であれば、評判になっていいはず。やはり遠方の方かと思うものの、きつい日差しの下、花はみな生き生きとしており、まるで今しがた摘み取ったかのようだった。

 なんとも不思議な気持ちでもう一度花を眺めれば、落ちた花びらの中に月光が揺れていた。光の海だ。花びらが波のようにも船のようにも見えた。 
 それは、美しい葬列だった。私は一人静かに見送る。ああ、と大きなため息がこぼれた。落胆でも嘆きでもない、喜びだ。輝く白の中で、「お兄さま」との美しい時間に別れを告げる。けれどそれは甘い香りとともに私の中で永遠に生き続けるだろう。自分はなんと果報者だろうと胸が熱くなった。

「お前には白が似合うね。やはり白にしよう」

 あの日、別れ際にそう言って微笑んだ「お兄さま」の真っ白なシャツが、夏を感じさせる風に大きく膨らんだ。白が世界を覆った、白は世界だった。一番好きな色、「お兄さま」の色。それを似合うと言ってもらえた幸せが私を包み込んで離さなかったはず。もう、涙など必要ないだろう……。

「真白さん、真白さん、お昼ですよ。お荷物が届いていますから起きてくださいね」  

 ドアの向こうからの声に重い瞼を開ければ、ぼんやり浮かび上がってきた部屋の中に違和感を覚えた。身を起こして辺りを見回す。 
 ない、花がない。花びらさえ。いいえ、花瓶そのものが。誰かが知らぬうちに片付けたのだろうかと、急ぎ身繕いをして部屋を出た。

 しかし私の問いに答える者はなかった。困惑しつつ荷物を受け取る。途端、胸が大きな音を立てた。長く四角い箱。開ける前からそれが何であるかわかってしまう。そんな形、他にあるわけがない。震える指を励まし、私は丁寧に丁寧に包みを剥がした。 
 真っ白な日傘だった。その生地には見覚えがある。びっしりと刺繡されているのは……昨夜見送った花。私はたまらず傘を胸にかき抱いた。もう泣かないと思っていたのに、涙が一粒二粒とこぼれ落ちる。けれど、これが本当に最後なのだと心からそう思えた。  

 新しい日傘をさし、顔を上げて表に出る。青い生垣へと急いだけれど、真昼の四ツ辻に人影はなかった。だけどもう泣いたりはしない。
 右へ行こうか、左へ行こうか、私はくすりと笑った。どちらでも、どちらにも。思うまま、気の向くまま、好きな方へ。きっと答えはそこにある。日差しは今日も容赦なく照りつけたけれど、白い花を探してどこまでも歩いていけるような気がした。

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