雨の高松塚はカビに注意です


高松塚古墳です。

考古学界では実証を重んじるので、基本的に被葬者の推定はしません。

目の前に提示された遺物のみを検証し、事実を積み重ねていくだけです。

ところが一般大衆の関心事はやはり、「被葬者は誰かな」と、独自の推理を展開するのですね。
メディアも同様で、当時は大々的に特集を組んだりしていました。

推理作家の好餌でもあり、百家争鳴の末に、それはないだろう、とツッコミたくなるような珍説まで飛び出したのは毎度のこと。
それだけ世の関心事であり、古代ロマンは万人を魅了したのです。

私も素人探偵を気取って、あーでもないこーでもないと記紀を読み返したり、リストを作って消去法で被葬者の特定を試みました。

世間では先ず、天武帝の皇子説があり、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子などが候補に挙がります。
次は天武に仕えた人ではないかと臣下説が登場、おそらく石上麻呂だろうとの主張です。
そして、敢えて被葬者を限定(特定)しない(できない)朝鮮半島(高句麗)系王族説。

おおよそこの三つの説が柱となって、被葬者の特定合戦が繰り広げられました。

どの説にもそれなりの説得力があり、瑕疵もあります。
だから意見が分かれる。
そこが外野席の面白さですね。

他にも藤原京の朱雀大路を南に延長した線上には野口王墓(伝天武・持統合葬陵)や栗原塚穴古墳(伝文武陵とされているけど絶対に違う!)があり、その線上近く(正確には100メートルのズレがある)であることから、天武系の近親者だろうなどの説が出ます。

ご多聞に漏れず、素人探偵も考えました。
結論を限りなく正解に導く物証はいくつか揃っていて、熟年男性一体分の人骨、漆塗り木棺の残片、副葬品の海獣葡萄鏡、壁画の人物像の服装や絵の具の分析結果等々。

但し、海獣葡萄鏡は日本に多数持込まれ、オマケに複製まで大量に出土しているので参考にはなりません。

逆に、古墳の形状や規模は被葬者特定の重要なファクターで、これなどは大きな判断材料になります。

日本書紀の孝徳天皇の条に、大化二年(646)三月の条に薄葬令の詔が発布された記載があります。
身分相応の規模や、使役の人数、期間、葬送の形式などを定めた内容です。

わざわざ薄葬令を出すくらいだから、それまでの埋葬墓は厚葬の風習を引き継いで、勝手気ままに造られていたことがわかります。

詔で定めた墳墓の規模は、王以上は方九尋(直径約18メートル)とされました。
高松塚はちょうど方九尋なので、だから、ほぼ王墓ということで間違いないでしょう。

材料は揃いました。
後は壁画の人物像などから推量するべきで、朝服(みかどころも)の検証が決め手となるのです。

そんな手掛かりから被葬者を導き出した歴史学者もいて、その方は大伴宿禰行幸(みゆき)と断定しています。

それ誰? と思う方もいらっしゃるでしょうが、万葉集に一首採られた作者で、

大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都となしつ

の歌を残しています。
さすが大王(天皇)は神であらせられるので、馬の腹まで浸かるほどの湿地を、あっぱれ都に変えてしまいましたと、北の将軍サマ賛辞も凌ぐ勢いで、持統や文武を褒め称えているヨイショ上手の高級官僚です。

行幸はもちろん王クラスではないけれど、竹取物語に登場する「大納言大伴のみゆき」のモデルと言えば、ああ、あの人ね、とわかって頂けるでしょう。

かぐや姫から竜の頸の珠を所望されて大海に出たものの、嵐に遭って命からがら逃げ帰ったあの人です。
壬申の乱では一族郎党で天武側につき、全軍の指揮官となったこともあり、蓮(むらじ)から宿禰を賜りました。

その報奨人事によって大納言を経て右大臣にもなったので、政権中枢のナンバー2の地位にまで出世したことがわかります。

じゃ、王以上と決めた薄葬令と違うじゃん! とは誰もが思うところですが、詔は身分に於ける最高限度であって制限法でもあると解釈すれば、このハードルは自由裁量で済ませることが可能だったとの解釈が成立するのです。

この辺、ちょっとややこしいのですが、関心のある方が考えれば、なるほどねと納得もできるでしょう。
私も、全面的に賛同はしませんけど、目からウロコが落ちそうになる名推理ではありました。

竹取物語つながりの余談ですが、かぐや姫から蓬莱の玉の枝を要求されたのに出航せず、綾部内麻呂らの職人に偽物を作らせた車持皇子のモデルは、藤原不比等とされています。

現代人の管理不行き届きによって生じてしまった壁画のカビの補修はあらかた済んだと聞いた記憶もあるのですが、実際その後どうなっているのでしょう?
カビが気になります。
文化庁が自ら国宝を劣化させるなど、言語道断です。

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