夕月夜心も萎に白露の置くこの庭に蟋蟀鳴くも


秋の虫たちのすだく音色に包まれている。
先ほどまで雲の切れ間から朧月が時折顔を覗かせていたが、山は今は、霧雨に覆われている。

不安定な空模様が続き、体調管理の難しい局面だが、それでもやっと猛暑を切り抜けた安堵感と、反面、まだまだお彼岸まで一か月あるので油断は出来ぬと、自らを戒める不均衡が並立同居している。

意地汚く長生きしたいとは思わぬが、どうやら今年の残暑を乗り切れるのではないか、季節は進んでいるのだからと、節目を付ける萌芽を実感する。

一年のけじめは暮れや正月ではなく、ここ数年は夏との折り合いの付け方に苦慮し、本物の秋が見え始めるとどうにか一年を生きた気になるのは、人生に於いて経験値から学んだ受容と肯定である。

やっとそんなことがわかったのかと指摘されると少し萎えるが、紙のように薄っぺらい人生であることくらいは自覚している。
同情されるより軽蔑される方がはるかにマシだが、理想は誰にも注目されることなく、ひっそりと生きてひっそりと死ぬことだから、毀誉褒貶などは気にしない。


例によって前置きが長くなった。

夕月夜(ゆふづくよ)心も萎(しの)に白露の置くこの庭に蟋蟀(こほろぎ)鳴くも

万葉集 巻8 の湯原王の歌である。

古人が蟋蟀と表現する場合は、秋に鳴く虫全般であることは知られているところだが、コオロギ、スズムシ、キリギリス、マツムシ、何の虫でも歌の鑑賞には一向に差し支えない。
(クツワムシは除外したい)

「心も萎に」は、心が萎える状態を指すのだが、すぐ後に「白露」とあるので、心が濡れている状態と読めぬこともない。
月の雫ならもっとピタリと来るのだが、私が探した限り、そんな表現は見当たらなかった。

すると歌意は次のような解釈になる。

「夕方になって出た月を見ると心が萎れそうだ、庭も白露に濡れて秋の虫が鳴いている」

なんだ、単純じゃないかと読み流すのはもったいない。
そこはかとない哀愁漂う歌にも拘わらず、感傷に溺れていない調べが功を奏している。

湯原王は天智天皇の孫で、父は志貴皇子。
世は天武系の時代。
少しでも目立った動きをすれば、言いがかりのような理屈ですぐにでも粛清されてしまう御代である。

歌を深読みすればさまざまな解釈が可能だが、王自身、何も語っていないので、僭越な推論は控えよう。
生没年は不詳ながら、皇統が天智系に戻る前に亡くなっている。

モチーフに目新しさはないが、端正な歌に仕上がっている。

コオロギには天敵が山ほどいる。
(カマキリに頭からむさぼり食われている場面に出くわしたことが何度かある)
それでも絶滅しないのはその数の多さであって、人類と似たようなものだ。

ところで、カマドウマ(俗称便所コオロギ)はコオロギの仲間ではない。

京極夏彦描く榎木津礼二郎同様、私もカマドウマは苦手な昆虫である。
触角と後脚が長すぎる。
そして跳びすぎる。

天敵から逃れるには、その跳躍力しかないが、満足に跳躍も出来ぬ私は、死んだふりしか生きるすべがない。
だからひっそりと空気を装い、世間から目立たぬように今を生きている。
それ故、湯原王の境遇が我が人生に重なり、共感するのだ。

いずれにせよ、今宵のコオロギの音色には、夏の終わりのけじめをつける風情がある。
まだ二百十日には早いが、ここ数日間、午後になると、心がとろけるような雨に包まれる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?