方丈の記

旧暦に直せば今日8月7日は七夕。
よって、例年ならば各地で七夕祭りが行われるはずだった。

しかし件の事情で周知の通り。
そこに猛暑が加わり、息も絶え絶えで農作業を続けていると過呼吸になりそうだ。
内臓まで煮えくり返り、湧き水をたらふく飲み浴びる。
戻ってエアコンを使う日もある。
山暮らしだから涼しいでしょうと言われるが、日中に30℃超えなど珍しくないし、猛暑日も頻繁にある。

「たなばた」はもともと棚機で、機織りを指した言葉だが、いつの間にか織姫は琴座のベガになり、牽牛は鷲座のアルタイルとなった。
その二つの星座が接近することから、男女の逢瀬に関連付けたようだ。

清少納言は枕草子で、

星はすばる、彦星、夕づつ。よばひ星、少しをかし。尾だになからましかば、まいて。

と書いている。

「夕づつ」は金星、「よばひ星」は流れ星のこと。
「尾だになからましかば」とあるのは流星の尾を指していると思われる。

彦星を出していながら織姫を無視した理由はわからないが、男女の逢瀬を連想させず、単にお気に入りの星々を連ねたと考えれば、いかにも清少納言らしいとも言える。

3.11以来、何かと話題に上がった方丈記も、クローズアップされたのは災害関連の部分だけで、それはそれで記録文学として価値あるものだが、方丈記の一番の魅力は隠遁した鴨長明の暮らし振りにこそある。

「青空文庫」から転記します。
(読みづらいので、勝手に改行)

五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。
もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。
身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。
むなしく大原山の雲にふして、またいくそばくの春秋をかへぬる。

こゝに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べるこもあり。
いはゞ狩人のひとよの宿をつくり、老いたるかひこのまゆをいとながむがごとし。
これを中ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだもおよばず。
とかくいふ程に、よはいは年々にかたぶき、すみかはをりをりにせばし。
その家のありさまよのつねにも似ず、廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。
所をおもひ定めざるがゆゑに、地をしめて造らず。
土居をくみ、うちおほいをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。
もし心にかなはぬことあらば、やすく外へうつさむがためなり。
そのあらため造るとき、いくばくのわづらひかある。
積むところわづかに二輌なり。
車の力をむくゆるほかは、更に他の用途いらず。

好きな部分なので、私流に意訳してみる。

『六十歳の生の消え際になって、さらに終の棲家を造った。
いわば狩人が一夜の宿を造り、年老いた蚕が繭を作るようなものだ。
これを若い頃の住まいと比較すれば、その1/100にも及ばない。
そうこうするうちに歳は毎年増え、住まいは次第に狭くなってきた。
その住まいの様子も世間のものには似ず、広さはわずかに四畳半、高さは七尺にも足りない。
ここに定住すると決めたわけではないから、敷地もしっかり均してはいない。
土台を組み、屋根を葺き、継ぎ目に掛け金を掛けた。
もし不便があれば、すぐに他へ移るためだ。
改めて造るのにどれほどの煩わしさがあろうか。
解体した家も荷車二台分である。
謝礼のほかには何の用途も不要だ』

いま日野山の奥にあとをかぬして後、南にかりの日がくしをさし出して、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、うちには西の垣に添へて、阿彌陀の畫像を安置したてまつりて、落日をうけて、眉間のひかりとす。
かの帳のとびらに、普賢ならびに不動の像をかけたり。
北の障子の上に、ちひさき棚をかまへて、黒き皮籠三四合を置く。
すなはち和歌、管弦、往生要集ごときの抄物を入れたり。
傍にこと、琵琶、おのおの一帳をたつ。
いはゆるをりごと、つき琵琶これなり。
東にそへて、わらびのほどろを敷きて夜の床とす。

『南に庇を出して竹の簀の子を敷き、西に水屋を作り、中は障子を立てて阿弥陀の書像を安置し、普賢と不動の画像を掛けた。
北の障子の上には小さな棚を作り、黒い革籠を置いた。
それには和歌、楽譜、往生要集などを入れた。
傍に琴、琵琶一張ずつを立て掛ける。
いわゆる折琴、継琵琶である。
東側には開いた蕨の穂を敷いて寝床にする』

東の垣に窓をあけて、こゝにふづくゑを出せり。
枕の方にすびつあり。これを柴折りくぶるよすがとす。
庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。
すなはちもろもろの藥草をうゑたり。
かりの庵のありさまかくのごとし。その所のさまをいはゞ、南にかけひあり、岩をたゝみて水をためたり。
林軒近ければ、つま木を拾ふにともしからず。
名を外山といふ。まさきのかづらあとをうづめり。
谷しげゝれど、にしは晴れたり。觀念のたよりなきにしもあらず。

この部分は訳すまでもなく、原文で読む方が味わい深い。

現代人には不便をかこつ12世紀の暮らしも、長明の筆によって日常の暮らしが俄然輝いてくるから不思議だ。四季の表現にしろ枕草子を凌駕し、

春は藤なみを見る、紫雲のごとくして西のかたに匂ふ。
夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。
秋は日ぐらしの聲耳に充てり。うつせみの世をかなしむかと聞ゆ。
冬は雪をあはれむ。つもりきゆるさま、罪障にたとへつべし。

と書き進めている。

『もし念仏が物憂く読経も豆にできないときは、自ら休み自ら怠ることを咎める人もなく、また恥ずべき友もいない。
殊更に無言の行をせずとも独りだから口が災いの元になることもない。
厳しく禁戒を守ろうとしなければ、禁戒を犯す境界が存在しないのだから禁戒の破りようがない』

何ともうっとりするほどの自由人ではないか。
究極の理想像を見せてくれる長明の「おひとりさま」である。

西のかたは西方浄土であり、その浄土に漂う紫雲を藤浪に喩えている。
死出の山路は冥土の山を指し、道案内を頼むぞとホトトギスと契りを交わす。
空蝉は儚い現世の比喩であり、雪を憐れむ内省は人間の犯した贖罪への思いに連動している。

方丈記を語れば際限がないので、いずれ機会があればまた。

今日は各部屋で扇風機を使う。
エアコンも遠慮なく使うべきだ。
東電に払うと思えば癪にさわるが、電気代を気にしていては命にかかわる。

鴨長明の時代はアスファルトやコンクリートが昼間の熱を溜めることなど無かったから、夜は凌ぎやすかっただろう。
天災や人災が多発したとて、それだけ取っても長明の生きた時代が羨ましいと思う。

旧暦の七夕でもあり、立秋でもある今日を何とか生き抜いたが、外は雨。

悔しさの夏が逝く……。

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