法隆寺 中門

2008年5月7日



五柱四間の中門は怨霊鎮めのために建てられたといったのは梅原猛だったか。
643年、蘇我入鹿の襲撃によって滅ぼされた太子一族の霊は鎮まったのだろうか。
各地の寺を回り続けていると、確かに中央に柱の立つこの構造は奇異に映る。
側面の三間も、全体のバランスを考慮した場合、若干の違和感を覚える。
四間の正面に対し、果たしてこれだけの奥行が必要なのか。
しかし、そのために安定感を損なうことのない重層の造りは、左右に延びた回廊の手柄によるところが大きい。
緩い勾配ながら深い軒の屋根と、金堂とは違って裳階を排除した設計も、すべて計算されたもののように感じられる。
結局は見る者の直感が精神を支配するのであって、様々な説明や解釈は意味のない気がする。

一方、阿吽の金剛力士像。
時代は鎌倉を示しているように見えるが、実際は和銅四年の作という。
この和銅四年は元明天皇の御世で、前年には藤原から平城へ遷都、五年には太安万侶によって古事記が完成されている。
私の知識はこの程度で、後は勉強不足で力士像の詳細は判らない。
それでも法隆寺の守護像であるからには日本最古の阿吽像には違いなく、もっとも現在の姿は修復や修理の繰り返しで当初とはまったく違う姿である可能性は排除できないが、その迫力や存在感は揺るぎない。
私は勝手に天平の原初の姿を想像し、胸の中で上宮王家を慰撫するのみである。





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