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大嫌いなパパと大好きなゲームの話

数年前の夏、父が死んだ。糖尿病を患っていた父は、例年通りの「季節の変わり目風邪」を拗らせて家で死んだ。検死によると夜中には逝っていたらしいのだが、恥ずかしい話、あまり父との会話がなかった私たちは、父の死に気づかず夜を明かし、母が風邪を気にして「病院に行ったら?」と声を掛けに部屋を訪ねたのは翌午前11時だった。

私たち家族は仲が悪かった(と私は思っている)。
理由は父の長年に渡る不貞行為と、酒癖の悪さと、経済力の無さだった。

父は企業向けのソフトを開発して事業を立ち上げた社長だった。ITバブル時代、見事軌道にのせた事業主として華々しくデビューを飾り、地元の新聞に取り上げられたり、ネット記事になったり、それはそれは儲かったらしい。当時は小さかったのでよく知らないが、考えてみたら母は専業主婦だったし、住んでいたのは都内新築の分譲マンションだった。

けれど、私の物心がつく頃には、その家は売り払われて賃貸マンションに移り住んだ。事業に失敗した父が借金をこさえて帰ってきたことが元凶らしかった。父は当初誰にも何も言わず、新しく借金をつくって返すつもりだったらしい。しかしひょんなことから母が借用書を発見したことで事が明らかになり、家を売ってとりあえず借金を返済することとなった。
母は当時引っ越す理由を、「駅から遠くて不便だからね」と話した。ふーん、と母の言葉を粗く噛み砕いて飲み込んだが、私は新しい家にも自分の部屋がなかったことの方が不満だった。それを訴えたら、「またそんなこと言って」と、母の言葉がいやに冷たかった。そのあたりから母はよく怒るようになった。
中学生だった姉は、酔った父から「パパ借金しちゃってさ、この家売ることにしたんだよね」と聞いていたらしい。私は幼いという理由で聞かされなかったので、事を知ったのは高校生になってからのことだった。

引っ越してからパートに出るようになった母は、それまで「1時間だけ」だったゲーム時間の決まりについて何も言わなくなった。
転校もして環境が変わり、学校でもあまりうまくいっていなかった私にとってゲームは大きな救いだった。たぶん母もそこんところを理解してくれていたんだと、今となってやっと母の優しさ思うことができるが、当時は「お母さんなんも言わなくなった! ラッキー!」ぐらいにしか思っていなかった。

当時はパソコンのオンラインゲームの全盛期(と思っている)で、メイプルストーリーやアラド戦記、チョコットランドなどといった、チャットしながら気軽にRPGみたいなものが流行っていた。母には「知らない人としゃべらないで」と言われていたけど、ゲームの中の人も友達だし……と理屈を作って、「www」「←」などと覚えたてのネット用語を酷使して放課後はパソコンに噛り付いていた(思い出したくない黒歴史でもある)。

母はネットに疎く、その点に関しては全く頼りがいがなかった。友達がやっていると言っていたハンゲームに登録したいのにやり方が分からない、DSをネットに繋いで通信したいけどやり方が分からない、そんなとき頼るのはどうしても父だった。

幼いころから父とは折り合いが悪かった。
「2人目は男の子がよかった」と父本人から言われたことがある。知らんがな、と思いながら、未だに覚えているくらいには傷つく一言だった。
父は色々と雑で、子どもなところがあったので、水が顔にかかるのが苦手だからと断っておいてもシャワーを顔面からかけてきたり、自転車の練習中転んで泣いたら怒って私を置いて帰ってしまったり、学校で覚えたなぞなぞを出したら「性格悪いな」と言って部屋を出て行ったり、私は自然と父から離れるようになった。母に父のことを話しても、「まあパパは、一人目はやっぱり可愛いから面倒一生懸命みたけど、二人目も女の子だったからがっかりしちゃったんだよ」と言われてさらに傷ついた。いまだにこの言葉を母の優しさと捉えることはできていない。

ネットに関することとなると、そんな父を頼らないといけなかった。

ハンゲームに登録するときには、諸入力を父に任せたら、IDが「○○(名前)199〇(生まれ年)」となっていて、本名が入ったIDというのもダサいし、チャットルームに入る度生まれ年だとバレて「小学生?」「ガキはROMってろ」などと言われて本当に嫌だった。IDは変更できない仕様だったので、さらに父離れが進む結果となった。

Wi-Fiの調子がおかしくなると、仕事中の父に家電から電話をかけた。
『なに?』
「ネットつながらなくなったんだけど……」
父に電話するときはいつも心臓がバクバク言っていた。なぜだかすごく怖かった。でも父は決まって、やさしく手順を教えてくれた。その時くらいしか頼ってこない娘に対して精一杯のやさしさだったのだと思う。でもそのやさしさがなんだか怖かったのだ。

父はほとんど自室にこもっていたので、リビングにはご飯のときにしか現れなかったのだが、なぜかテレビにはうるさく、私たちが何を見ていてもご飯のときには自室で自分が見ていたチャンネルに変えてテレビを占領した。母は父が食事を終えて部屋に戻ると、すぐにチャンネルを戻して「あーもう、終わっちゃってる」と言った。見てたのに、とひとこと文句を言えばいいのに、なぜだか誰も言えなかった。
そんな父は「テレビを占領されたくない」と言って、絶対にテレビゲームを買い与えてはくれなかった。

サンタさんにPS2をねだろうとしたこともあったが、サンタ宛の手紙を書いていたら母に「テレビにつなぐやつはパパに怒られるよ」と制された。サンタさんにもらっちゃったから、と押し通すつもりでいたのでショックだった。サンタさんもパパのルールには勝てないらしかった。仕方なく、友達の家で少しずつRPGをやらせてもらう迷惑な子どもになった。

家にはゲームボーイ二台しかなかったが、DSが流行っていた当時、友達みんなDSを持ち寄って遊んでいた。持っていなくて仲間に入れなかった私も、Liteが発売された時「古いやつなら貸してあげる」と気前のいい友達に本体ごと貸してもらって夢中になった。マリオカートはいつもお裾分けプレイのヘイホーで、赤甲羅を握って「おら! 死ねーい!」と言ってはいけない言葉を口にすることに背徳感と高揚感を覚えたのもその時期だった。

その年のクリスマス、自分のが欲しい!と、DSLiteをサンタさんにもらって(たぶん母に買ってもらって)以来、父は1か月に一本くらいのペースでソフトを買ってくるようになった。「おいでよどうぶつの森」「ニュースーパーマリオブラザーズ」「ニンテンドッグス」「えいご漬け」「大合奏!バンドブラザーズ」「結界師烏森妖奇談」……毎月頼んでいるわけでもないのに急に買ってきてはリビングのテーブルに雑に置いて、「買ってきた」と言うのだ。

パソコンのゲームをほったらかして、DSに夢中になった。毎晩友達とどうぶつの森の通信をして夜更かしした。犬を飼わせてもらえないから画面の中でめいっぱい愛でた(すぐ飽きた)。母親と一緒になって英語の勉強をした。毎日ゲームの事ばかり考えている子どもだった。

父は私が夢中になっているのを見て嬉しかったのだと思う。私が父に対して心を閉ざしているのを知っていた不器用な父は、モノを与えることで私との仲を保とうとしていた。私はやらしい子どもだったので、それを分かりながら、何か与えられた時には父に好意的に接するようにしていた。

「パパもやる?」
そんな私の戦略にはあまりにボキャブラリーが足りておらず、ありがとう!という言葉だけではなんだか足りない気がして、休みの日リビングに来た父にそう声をかけるようになった。父はたぶん部屋でなにかすることがあったのだと思うけど、私が誘うと「やるかー」と言って席に着いた。

何のゲームで誘っても、父は決まって「ニュースーパーマリオブラザーズ」しかやらなかった。別に父が何をやってもどうでもよかったので、私もいいよーと言ってソフトを変えてやった。

父はそんなにゲームが上手ではなかった。大きいコインは取れないし、ただ歩いているだけのクリボーにも平気で負ける。その頃になると私も、父が少し子どもで、アドバイスなんかをすると拗ねてどこかへ行ってしまうことを理解していたので、隣に座って見守ることに専念した。父が失敗しても、「あー」とか「残念」とか言って、笑うことはしない。親子でゲームをしているのに、私たちはほぼ無言だった。

私が増やした機を父が使い切ったところで親子ゲーム大会は終了する。父はゲームオーバーの画面を見て、「うわー」とひとこと、それから「ありがとう」と言って席を立った。そのときいつも「貸さなきゃよかった」と思うのに、次の週末にはまた機を増やしておいて父を誘うのだった。

そんな親子の交流は、私が中学に進学することに伴って自然となくなった。部活動や勉強に忙しくなったから、ゲームに充てる時間がなくなったのだ。父と思春期の娘が話す機会はほとんどなくなり、父の嫌なところばかり濃く思い出されて、私は父の事がどんどん嫌いになっていた。

高校生になると、嫌いを通り越して父に対する関心がなくなった。

父が糖尿病を患っていることがわかった。数日入院したときはさすがに心配したが、手術のとき「がんばって」と連絡をしたのを無視されてから、まあいいかと心配するのをやめた。
退院したあとしばらくしてから父は大酒を飲んで歌い叫びながら帰ってくるようになった。細々続けていた会社が、本格的に傾き始めたらしかった。姉はそんな父に「うるせえ」と大声で怒ったり泣いたりしていた。母は「いいかげんにしてよ……」と酔っぱらってほとんど意識のないような男を諭していた。

私は何もしなかった。眠っていて気づかないようなふりをして、母や姉が夜遅くに泣きながら話しているのも知らないことにしていた。家族から見たら私はまだまだ子どものようで、何も教えてはくれなかったから、まだ子どものふりをしているのがいいのだと思った。母や姉が怒っているのを聞いて布団で静かに泣いたけど、何食わぬ顔で起きて、普通に家を出て、普通に学生をして、普通に帰った。私は何も知らないのだから。その時盗み聞いて初めて、借金があったこと、それが原因で引っ越したことを知った。私は何も知らなかった。

大学生になったときには、離婚の話が何度も出ていて、二人は私が20になるのを待って離婚する決意をした。あの時ほどはやく大人になりたいと思ったことはない。家族全員が私の成人を待っていた。
実際ハタチになったときには、父の会社は倒産寸前で、月によって一切の収入がなかったり、コツコツ貯金をしていた母も私の学費でお手上げ状態だった。結局、私が大学卒業するまでは離婚しないという話で落ち着いたようだった。母は夜中親戚に電話をかけて金を工面していた。ずっと知らないふりをしていた私も、自分のことが家族の解散を踏みとどまらせていることへの罪悪感を感じていたので、「もう大学辞めて働くからお金借りないで」と頼んだことがある。母には「ふざけんじゃないよ」と怒鳴られた。母からしてみれば、私のためにしていることを、私に否定されたのだから、当然の怒りだった。私はやはり知らないふりに徹することにした。

私が大学3年生の時、父は死んだ。
毎年、クーラーを使い始めると父は決まって風邪をひいた。そのとき糖尿でだいぶ痩せて免疫が弱っていた父は、夜中まで家じゅうに聞こえるような激しい咳をずっとしていた。仕事も休んでいたようで、死ぬまで一週間くらいは家にいたと思う。大学も週2,3くらいしかなかったので、ほとんど毎日バイトに明け暮れていた私は、父と顔を合わせることも少なかった。死ぬ前日の昼、バイトに行く前、起きてきた父と対面した。父は誰もいないと思っていたのか驚いた顔をして、「おう」と言った。それはもうなんだか、大学の先輩があんまり知らない後輩にすれ違った時に言うみたいな、粗末で、その辺から拾ってきたみたいな「おう」で、私はなんだか呆れてしまって、何も言わないで家を出た。
これが私と父の最後だった。次見た時には父は、床に落ちた硬くて冷たいものになっていた。

母も姉も、「あのとき声を掛けていれば」「もっとはやく病院に連れて行っていれば」と自分を責めるようにぽつぽつと言った。私からしたら、二人は何にも悪くなくて、仕方のないことだったと思う。そうされるに等しいことを、母も姉もされていたと思うから。でも私は、向こうから投げられた「おう」の二文字も拾ってあげなかった。それってそんなに煩わしいことだったのかな、私もその辺から「おう」を拾ってきて投げればよかったんじゃないかな、と思う。でも私の場合、そうしてたからって救われるのは父の命じゃなくて、私の心だ。

父が死んだあと、いろいろな父の不貞が明らかになって(とは言えほとんど気づいてはいたけど)、証拠がうじゃうじゃ湧いてくるから、私たちは再度父に呆れることになった。ちょっと財布を開けたらわかってしまうようなボロがあちこちにあって、なんて雑で、子どもなひとだろうと思った。

父の棺桶に入れる用に、家族のアルバムをひっくり返していたとき、一枚の写真に目がとまった。

父と姉と私で、ゲームをしている写真。幼い私が参加できているのかはちょっと怪しいけど、なんだかすごく懐かしい気持ちになった。

写真を整理しながら、父と毎週末並んでマリオをやったことを思い返した。
あそんでやるか、なんて上から目線の娘の気持ちを知ってか知らずか、父は毎回私の誘いに乗ってきた。私は別に楽しくはなくて、たぶん父もそんなに楽しくはなくて、でもお互いなんとなくこの仲を崩してはいけないような気がして続けていたんだと思う。
私はゲームが大好きだけど、あんまり上手じゃない。でもマリオだけ割と上手なのは、たぶん毎週末の父の分の機を作るためにせっせと続けていたせいだ。

父の横に写真を入れようと姉が提案した時、あんな父が私たちの写真と共に焼かれて嬉しいのかどうか、自信がないなと思ってうまく返事が出来なかった。でも、「これいいね」「パパ若」なんて言いながら姉とアルバムから写真を抜き取っていくたび、父が家族であった実感がどんどん大きくなった。写真の父はいつも穏やかな顔で、ちゃんと父親だった。

私は今日もゲームをする。いまはパワプロとポケモンにはまっている。
マリオは滅多にやらないのに、新作が出るとなんとなく買ってしまう。得意だから、と思って少しやってみるけど、なんだか、あのとき下手くそな父のプレイを横で黙って見ていた時の方が楽しかったような気がするのだ。そんなわけないんだけどね。

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