僕は泣かない
僕は泣かない
僕は泣かない
絶対に
僕は泣かないって、そう決めたんだ
*
玲子が起こしにいくよりも先に、宗太郎はすでに布団をたたんでいた。たたむと言っても、掛け布団と敷布団をひとまとめにして、二つ折りにしているだけだ。その上に、ちょこんと枕が置かれている。宗太郎は、もうずっとこのたたみ方をしている。二つ折りにした布団を開けば、またすぐに寝られるからだ。合理的なやり方はいかにも宗太郎らしい。
ちゃんと畳んだら、と言う玲子に対して、万年床よりはマシでしょ、と宗太郎は言いかえした。
「それより玲子さん。今日の朝ごはんは、なんですか」
「今日は、ご飯と、かぼちゃの味噌汁と、出汁巻卵です」
宗太郎はそう、と言うと、玲子の隣をすり抜けて洗面所へと向かっていった。
玲子はその後も少しだけ宗太郎の部屋を眺めていた。白いカーテンの隙間から朝日が漏れて、部屋を明るく照らしている。布団を畳んだせいで、キラキラとホコリが舞っている。布団の畳まれたベッドがあって、その隣には勉強机がある。その隣には、しっかりと準備されたランドセルが置かれていた。びっしりと詰まった教科書に、選択した給食エプロンが入っていた。
宗太郎は“ちゃんとしている”。学校でも問題を起こさないし、家でもおとなしい。言いかえれば、手のかからない子供だ。玲子はそんな宗太郎のことを、いつも不気味に思っていた。なにを考えているのか、わからないのだ。なにを思って、なにを考えているのか。感情をほとんど表に出さない宗太郎のことを、玲子はいつも心配に思っていた。
机の上に、それはあった。涙香丸だ。
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宗太郎の特に“ちゃんとしている”ところは、料理の食べ方だった。箸の持ち方は美しく、咀嚼の音はほとんど立てない。真一文字に結ばれた口から、料理がこぼれることなど一度もなかった。ご飯とおかずを食べる順番にも気を使う。どちらかが早く無くなったり、余ったりすることがない。食べるペースも遅すぎず、早すぎず。料理が暖かく、なるべくおいしい間に、宗太郎はさらっと平らげる。
なんと美しく料理を食べる子どもだろう、と玲子はいつも思っていた。でも、玲子はあまり嬉しくなかった。宗太郎は綺麗には食べるが、おいしそうに食べることは一度もなかった。
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宗太郎は、もともとは泣き虫で有名な子どもだった。ちょっとしたことで涙を流すため、厳しく躾けていた。両親が手を上げることはなかったが、声を荒げることは多々あった。泣き虫なぶん、宗太郎は聞き分けがよかった。大人の言うことを、とにかくよく聞く子どもだった。
そんな宗太郎にとって、学校は辛い場所だった。ひ弱な宗太郎は、力では周りの男の子たちに敵わない。手を挙げられるとすぐに泣いた。宗太郎がやり返すことは、なかった。
宗太郎は優しすぎるのだ、という大人の見方もあった。女の子に泣かされることもしょっちゅうあった。いじわるな女の子は、すぐに涙を流す宗太郎を面白がって、彼を“いじった”。
そんな宗太郎は、クラスでは少し浮いた存在だった。特に得意なことがあるわけでもなく、そのスポーツクラブにも属していない。話が合う友達もいなかった。話をしても、会話が合わない。ついていけない。周りの子供達は、宗太郎のことを次第に“違う目”で見るようになった。
教師は発達障害を疑った。アスペルガー症候群、あるいは、ADHD。病気として認められないとしても、そのグレーゾーンにいるという場合もある。仮に病気でなかったとしても、それが、HSPと呼ばれる、いわば“偏った気質”のようなものの可能性だって考えられた。でも、それらはただの言葉だった。そして、宗太郎を理解するための言葉にはならなかった。
一方で、父親の見方は違った。男が泣くな。泣くのは弱い証拠だ。我慢がない証拠だと、宗太郎にいつも言い聞かせていた。
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宗太郎が泣かなくなったのには、秘密があった。「涙香丸」と呼ばれる薬のおかげだった。
『1日、一粒飲むだけで、涙がピタッと止まります』
瓶には、そう書かれていた。
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泣かなくなったから、と言って、そう簡単に周りの子供たちの宗太郎への態度が変わるわけではなかった。相変わらず男子は彼を攻撃の対象としたし、女子も彼をいじった。
でも、その異変は徐々にクラスに浸透していった。宗太郎が、泣かなくなった。それは、クラスメイトにとっては、退屈を意味した。
なにをされても、なにを言われても、宗太郎は泣かなかった。その退屈さが、彼に対するいじめをエスカレートさせていった。
机にひどい落書きをされても、ものを盗まれても、彼は泣かなかった。
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ある時、クラスメイトが教室でボール遊びをしていた。その時にガラスを割って怪我をしたのだ。
結果的に、その怪我は5針も縫う大怪我だった。男の子は泣き叫び、まわりのクラスメイトたちはその流血の量に言葉を失った。釣られて泣き出す女の子もいた。
その様子を見て、宗太郎は激昂した。なんでみんな、こんなことで泣くんだ?情けない。みんな弱虫だ。こんなことで泣くな。こんなの大したことないじゃないか。
それでも泣き止まない生徒に、宗太郎は馬乗りになって殴りつけた。
駆けつけた教師と生徒によって、宗太郎は押さえつけられた。
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玲子は、宗太郎の変化に気づいていた。そして、偶然、あの薬を、宗太郎の部屋で見つけていた。
その日のうちに、宗太郎は教師とともに帰宅した。そして、学校での一件を、玲子に説明した。
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教師の帰った家の中で、玲子は宗太郎に、涙香丸を飲むのをやめるように進めた。
しかし、宗太郎はそれを拒否した。そんなことをすれば、また前と同じ泣き虫に戻ってしまう。
泣いたっていいじゃない。そう諭す玲子に宗太郎は言葉を荒げる。
「玲子おばちゃんになにが分かるの!?おばちゃんには、なにもわからない!」
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両親の葬式で、宗太郎は泣かなかった。母親の双子の妹、玲子がそばで泣いているのを見たからだった。今度からは一人だよ。どこかの大人が言った。君は、一人で生きていかないといけないんだ。
強くならないといけないんだ。我慢しないといけないんだ。
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玲子は宗太郎に告げる。それは薬でもなんでもないことを。姉の陽子が薬瓶に入れた、ただのお菓子であることを。
「ねえ、聞いて。宗太郎。あなたは、もう十分戦った。十分強いの。もうこんなの、飲まなくたっていいのよ」
玲子は涙香丸を口いっぱいにほうばると、バリバリと全てを平らげてしまった。
その姿を見て、宗太郎はあっけにとられていた。
「ね、涙が止まらないわ」
*
次の日の朝、宗太郎は食べたいものをリクエストした。トーストにたっぷりのバターをのせて、スクランブルエッグを食べた。両親と、最後に食べた食事だった。
宗太郎の食べる姿を見ながら、玲子は思った。
私は、泣かない。泣いてはいけない。辛いのはこの子なんだから。
私は大人なんだから、泣いてはいけない。
怪我をした生徒の責任を巡って、学校では教師が保護者からつめられていた。
教師は泣きそうになるのを抑えながら、必死にあやまった。
泣いてはいけない。こんなことで。私は教師なんだから。私は、大人なんだから。
どこかで誰かが、同じことを思った。
男なんだから。
父親なんだから。
母親なんだから。
大人なんだから。
プロなんだから。
大人の言うことは間違いないんだから。
上司なんだから。
政治家だから。
社長だから。
成長のため。
将来のため。
強くなるため。
泣かない、
泣かない、、、
僕は泣かない
そう決めたんだ
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