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【短編】幸せの形

纏わりつくような黒の中を僕は進む。
進んでも進んでも、視界に広がるのはただただ静かな暗闇の世界。

ふと。近くに何者かが蠢く気配を感じ、僕は身を縮こまらせた。恐怖で震える体を抑える。
この世界は敵も多い。自分の気配を殺してじっと息を潜める。物音を立てれば襲われるかも知れない。
暫くした後、やっと何者かの気配が消えた。
そっと辺りの様子を窺う。周囲の安全を確認してから僕はまた動き出した。


物心つくか否かくらいの頃には同年代の仲間が居た。
しかし、幼い僕たちを守ってくれる存在なんてものは残念ながら存在しなかった。
突然正体もわからぬ恐ろしいものに襲われた幼い僕たちは散り散りに逃げ…、そして気付けばひとりだった。

仲間たちはどうなったのだろう。
生きているのだろうか。

産まれてからこの方、僕はずっとこの闇の中で『何か』を探しながら生き続けている。
それが何なのかはハッキリとは判らない。僕自身それを見たことが無いからだ。
ただ「見たらわかる」。それだけは何故か確信している。
その見たこともない『何か』を見つける為に、僕はこの途方もなく広い黒の世界を彷徨い続けている。
もしまだ生きている仲間が居るのであれば、彼等も僕と同じく『何か』を探しているのだろう。

死の恐怖を常に感じながら見つかるかわからぬ『何か』を一生を賭して闇雲に探し回ることと、恐ろしいものに襲われて早々に生命いのちを落とすことーそのどちらが幸せなのか、僕には知る術は無い。
何が幸せかなんて僕にはわからず、他に目的も無い。
だから僕は淡々と、そして突然訪れるかも知れない終わりへの恐怖に震えながら、この黒い世界を『何か』を求めてひとり進むのだ。

-------


どれだけの時間が経っただろうか。
物陰に横たわる同類を見つけた。この危険な世界の中で同類を見掛けることは珍しい。僕は彼にそっと近付いていった。
彼のともしびは消えかけているようだった。

「そこに誰か居るのか?」

僕の気配を察したのだろう、彼がこちらに呼び掛けてくる。その声は力無いながらも緊張に満ちていた。

「貴方と同類です。」

僕が答えを返すと、彼はホッと力を抜いたようだ。

「この世界の中、同類に出会えるのが珍しくて思わず近付いてしまいました。」

お邪魔でしたか、と問えば彼は横たわったまま穏やかに答えた。

「いや、そんなことはない。…名も知らぬ後輩よ、もし良ければ少しだけ話し相手になってくれないだろうか?」

僕は少し迷ったが、彼の願いを聞き届けることにした。此処ここは物陰だ。きっと恐ろしい存在に気付かれることは無いだろう。

「僕で良ければ。」
「…ありがとう。」

彼はそっと呟いた。

それから彼の話を聞かせてもらった。
今までに彼が見てきた景色の話は新鮮で、僕の見てきた世界とは別世界のように色付いて感じられた。
同じ黒の世界を見てきた筈なのに。なんて羨ましい。
通す目によってこんなにも世界は形を変えるものなのかと思った。

沈黙が訪れた。もう彼の残り時間が少ないのかも知れない。上下する胸の動きが出会った時より緩やかになっているように見えた。
彼にどうしても聞いてみたいことがある。僕は思い切って口を開いた。

「聞いても良いですか。」
「おう、何でも。」
「貴方は…幸せ、ですか?」

幸せでしたか、と、過去形を使うのは憚られた。彼はまだ生きているのだから。恐らく僕と同じ様に生きてきたであろうその生涯を、ひとりで耐えてきたであろうその辛さを共有出来るのは僕だけだと思った。そして僕がなぞるかも知れないその一生を、僕はまだ過去形にはしたくなかった。
僕はただ彼の目を見つめ、じっと彼の答えを待った。

-------


闇の中を僕は進む。
そして先程看取ったばかりの彼とのやり取りを思い返す。

……。
…………。


「幸せだよ。」

即答した彼に驚く。
敢えて過去形を使わなかった僕の意図を察したのか、僕を見る彼の目はとても優しかった。

「ずっとひとりで生きてきた。君も同じだろう? 
俺はそんな自分自身に意味が欲しかった。だから、『何か』を探すだけじゃなく楽しもうと思った。自分で自分に意味を与えようとしたんだ。
でも年を取り、段々と体も動かなくなってきてな。俺は怖くなった。楽しんで生きたけど、何も成し得なかった俺に一体何の意味があったのだろうって。凄く虚しくなった。
せめて恐ろしいものに襲われて死ぬのは嫌だと物陰に隠れたけど…ひとりでその時を待つのは、とても怖かった。
そこに、君が現れたんだ。
俺と同じ立場の他の誰でもない君に俺の話を聞いて貰って、最期に側に居て貰って、俺は満たされた。君は俺の一生に意味をくれたんだ。
闇の中、ひとりで後悔と共に逝くのだと思っていたのに、最期にこんな奇跡に出会えるなんて」

これ以上の幸せは無いよ。

ありがとう、と息を吐くように呟いたのが彼の最期の言葉だった。
光も届かぬ暗闇の中だったが、僕には彼の最期の一息がきらきらと輝きながら昇っていくように見えた。

……。
…………。


ただ闇雲に彷徨うだけだった僕が、誰かに存在を感謝される日が来るなんて。
とても不思議な気持ちだ。
今までとは世界が違って見える気がする。彼の一息がきらきらと昇っていく光景を見て、僕は生まれて初めて「綺麗だ」と思った。
僕の方こそ彼から大きなものを貰ったのだ。
きっと、僕はこの後に何があっても胸を張って生きていけるだろう。
他の誰かに「君のお陰で幸せだった」と言って貰えたこの奇跡さえあれば、例えどんな最期を遂げたとしても僕は「幸せだった」と言えるに違いない。

しかし出来る事ならば。本懐を遂げる事なく道半ばで力尽きた彼の為にも、僕は『何か』を見つけたいと思う。
ただただ進み、自分に出来ることを行うのみだ。

-------


またとても長い時間が過ぎた。

『何か』は未だに見つけられない。
この広い世界で『何か』を見つけるなんて、矢張り無謀だったのだろうか。
だいぶ昔に彼を見送って以来、同類には出会っていない。

彼から貰った優しさによって僕は此処まで生きてこられた。
あんなに運命的な出会いや奇跡は一生にそんなに沢山あるものでは無いだろう。だから『何か』は見つからないかも知れない。
それでも、僕は最期まで『何か』を探そうと決めていた。
あんなに無気力だった僕がこんなに一所懸命になれたのも、彼のお陰だ。


すぐ近くで何かが動く気配がした。今までの経験から、恐ろしいものの気配だとわかる。
考え込んでいたからだろうか、こんなに近くに来るまで気付かないなんて…なんたる不覚。
咄嗟に物陰に隠れたが、今の僕には昔ほど体力が無い。見つかってしまえば逃げ切れるかどうか。

 ーここまでなのか。

そう思った僕の視界の端で何かが光った。

 ー『あれ』だ。見つけた…!

その『光』が僕の、僕たちの探し続けた『何か』なのだとすぐにわかった。
『光』は遠くでぼんやりと揺蕩たゆたっている。

近くには恐ろしいものが控えている。
全力を出したとして、恐ろしいものに捕まる前にあの『光』に辿り着けるだろうか。

…いや、辿り着けるだろうかじゃない。
辿り着いてみせる他ない。

彼や僕が一生を賭けて探したものが目の前にあるのだ。
恐ろしいものに震えて隠れている場合ではない。
此処で全力を尽くさずにいつ全力を出すのだ。

意を決した僕は、全力で物陰から飛び出した。
全力で『光』に追い付き、文字通り喰らいつく。何があっても離してやるものか、と思った。

そうして、光にしがみつき続けーーー、暫くして僕の意識は優しい白い光に緩やかに溶けていった。



「ねえ、すっごい! わたしこれ初めて見た!」

一緒に水族館の展示をまわっていた友人が声を上げる。彼女の目の前にあるのはチョウチンアンコウの標本だ。大きさからして、間違いなく雌だろう。雌の身体の大きさに対して雄の身体は5cm程しかない。従って雌雄はすぐに見分けがつく。
彼等には面白い性質がある。雄は自分の子孫を残す為に見つけた雌の体表に融合するのだという。
光も届かぬほど深く広大な水の世界で、雄が雌に出会える可能性は果たして何%なのだろう。
その幸運を活かし確実に子孫を残す為、彼等は自分の意識を手放すのだ。

知り得る限りチョウチンアンコウについて語れば、友人は「えぇえー」と声を上げた。

「それじゃあ、どっちにしても雄は地獄じゃん」

それって幸せなのかなぁ?と呟く彼女をチラリと見遣る。

「大事なものを手放してでも手に入れたいものだってあるでしょ、って話ですよ。」
「でも、生きるか死ぬかの瀬戸際でやっと手に入れたと思ったら『アナタの生命と引き換えです』なんて…。なんか報われないなぁ。」

そう言って彼女は頬を膨らませた。彼女の明るく優しい気質から出た言葉なのだとわかってはいたが、自分は身を裂かれた心地がした。

「自分は、わかるなぁ。」

目を伏せてポツリと呟いた言葉には、丹念に砕いた筈の心が滲み出していた。その事実に自分が一番慌ててしまう。
「んー? 何か言った?」と彼女が振り返る。

「いえ、何にも。」

涼しい顔をして答えれば、彼女は「ふーん?」と首を捻りながら次の展示に向けて歩き出した。
彼女に聞こえていなかったことにホッと胸を撫で下ろす。きっと自分の想いは彼女を困らせる。側に居られなくなるくらいなら、自分は躊躇わずに自分の心を殺すことを選ぶ。


深海の世界にもきっと色々なドラマがあったことだろう。何も得られなかったものだって居るに違いない。自分にはその全てを知ることは出来ない。
チョウチンアンコウの標本をもう一度見る。雌と同化した彼等はただの瘤のようで、最早元の姿もわからない。
命懸けで求めたものに喰らい付き、その一部として永い眠りに就いた深海魚。
その姿は、やはり自分にはひどく幸せそうに見えたのだった。

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