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【短編】メントールによるオーバーライト

「タバコいたい…」

居酒屋の薄暗い電球を見上げながら、目の前の彼女がぼそりと呟く。彼女が喫煙しているところを見たことが無かった俺は驚いた。

「あれ? 喫煙者でしたっけ?」

数年ぶりに会った相手はかつての同僚だ。昔は喫煙はしていなかった筈だ。
かつて一緒に食事に行った後、自分が一服しに行った時を思い出す。「喫わないけど、わたしも行く」と彼女は駅の喫煙所に着いてきて、喫煙する俺の隣でただただずっと待っていた。そう、確かにあの時彼女は「喫わないけど」と言ったのだ。

「ん〜…。1年に一度くらい、喫うことがある。」
「? 1年に一度?」
「そう。あー。でも最近は喫ってないな…。1年というより数年に一度?」
「偶に人に貰うとかそういうこと?」
「いや。1年から数年に一度、凄くストレスが溜まってやってられなくなった時に限り一日で一箱一気に喫う。」
「…それは身体に良くないから辞めたほうが良いよ!?」

思わず突っ込むと彼女が笑う。明らかに身体には良くないし、頻度も普通の喫煙者とは違う。しかし、不思議な雰囲気の彼女らしいと言えば彼女らしい。ただ、大事なことだから何度も言うが、絶対に身体には良くないから本気で辞めて欲しい。
聞けば、学生時代から偶に喫っていたらしい。ただニコチンへの依存など無い性質タチだったのか、本当に偶にしか喫わなかったそうだ。
そうなると今度は彼女が煙草を喫うに至った経緯が気になる。
読書家で真面目で優しい彼女の雰囲気に煙草はそぐわない気もするが、彼女は各種ジャンルのゲームも好きだし聞くのはゴリゴリのヘビメタだ。知れば知るほど色々な一面を見せる彼女のことだ。何をしていてもおかしくない。

「なんで喫ったの?」

と軽く聞いてみたことを、俺はすぐに後悔した。

「当時好きだった先輩に喫わされた。」
「……。」

さらりと答える彼女に何も言えなくなる。
昔から彼女の隣には誰かしらが居る。俺にはそれが面白くない。



彼女とは職場は一緒だったが、職種は違った。
俺が時期外れの新卒として初夏に入社した時、周りは遠巻きにしてきた。
どんどん流れてくる仕事のどれに自分が手を出して良いのかわからない。聞こうにもみんな忙しそうで、ただただ孤独感と無力感に打ちひしがれた。そんな中で声を掛けてきてくれたのが彼女だった。「これは行ける」「これはわたしやるね!」と割り振ってくれた彼女に少なからず救われた。
先輩社員の彼女に認められたいが故に頑張った。そうしているうちに、次第に周りとも打ち解け始めた。

「とうとう俺、ひとり立ちになるんですよ!」

と報告出来たとき、きっと彼女は喜んでくれると思っていた。
「良かったね! 頑張ったね!」と彼女は喜び、フワリと微笑んでくれた。
そして、それから彼女は少しずつ俺から距離を置き始めた。俺が同じ職種の先輩と仲良くなったのを見て遠慮したのだと思うが、このまま離れてしまうのは嫌だった。
帰りの電車も方向が一緒だったから、帰り際にタイミングが合えば一緒に帰った。職場を出る時に見つからなくても、駅のホームで見掛ければ必ず声を掛けた。
入社したばかりの頃はホームで見掛けても声も掛けられなかったというのに。これも社会人として少しは自信が付いたからなのかも知れない。

積極的に関わろうとしたことが功を奏したのか、ある日「今度飲みに行かない?」と彼女に誘われた。
それ以降居酒屋やらラーメン屋やら2人で一緒に食事に行くことが増えた。その頻度は職場の同僚と言うにはあまりにも高いものだったと思う。
しかし彼女には他に交際相手が居たし、自分達の関係は飽くまでも『同僚以上の何か』でしかなかった。

-------


数年して自身の昇進が決定した頃、俺はある失態を犯したことがある。頭紙なしで相手先にFAXを送り付けたのだ。勿論事前に電話で断りなどは入れていない。今思い出しても我ながら恥ずかしいことこの上ない出来事だった。
彼女は隣で見ていた。それを知った他の先輩社員たちは「なんで貴女は見ていたのに止めなかったの?」とアワアワと詰め寄った。彼女はニコニコしながら、

「これも経験のうちかな、って。」

と答えた。

「だって、社会人何年めになるの? これくらい知らないと困るでしょう?」

獅子の子落とし的な。そう言う彼女に周りは絶句していた。
「え…これ、今から謝罪して頭紙だけ送ります…?」と震える俺と先輩社員に、彼女は「大丈夫ですよ、これくらい。うちの職場が少しばかり常識ないなってなるだけですから。今更いまさら。本当にヤバければ止めてます」とニコニコと答えた。
今思えばとんだ暴論だし、なんて荒療治かと思う。しかし、当時の自分には何よりも効いた。
どうやって自分の世界を広げれば良いのか考えた俺は読書を始めた。今まで殆ど本には触れて来なかったのに。
兎に角彼女に認められたくて必死だった。

「お、珍しいね? 何読んでるの?」

帰りの電車の中で開いたハードカバー、俺の手元のそれに彼女の視線が吸い寄せられている。読書好きな彼女のことだから食い付いてくると思っていた。

「あれ以来、勉強しようと思って。本読み始めたんですよ。」

はにかんで伝えたら彼女は嬉しそうに笑った。その笑顔が眩しかった。

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それからまた数年。転職と引っ越しを決めたことを、俺は誰よりも早く彼女に伝えた。

「…そう。寂しくなるね。」

目を伏せて呟いた彼女は、

「でも応援するよ。転職しても、また飲みに行こうね。」

と次の瞬間にはパッと表情を切り替え、俺を笑顔で見上げた。

最終出社日、彼女がそっと餞別を贈ってくれた。小さな紙製の薔薇のブーケが添えられたその中身は、布製のブックカバーと栞だった。ブックカバーはどのサイズの書籍でも使えるもので、栞には智慧のモチーフの梟があしらわれていた。
あの日からずっと読書を続けていた俺のことを彼女はちゃんと見ていてくれたのだ。思わず涙が溢れる。
彼女はそんな俺を見て「泣かせちゃった」と満足気に笑った。



気の所為とお互いが言ってしまえばそれまでだけれど、それでも確かに彼女と俺はそれなりの強さでお互いを見詰めていたと思う。


彼女の当時の交際相手は、モラハラ気味の男だった。どんな時でも人前ではニコニコしているのに、ホームでひとりで佇むときの彼女はいつも寂しそうに遠くを見詰めていた。
そんな彼女のことを心配して交際相手のことを聞いても、彼女は取り繕うかのように笑うのだ。

本当は無理矢理にでもそんな相手からは彼女を奪い去ってしまいたかった。
だけど俺はそうしなかった。
彼女が望むならいくらだって俺自身を差し出すつもりだ。
それでも。絶対に言い訳や逃げ道としては使わせたくなかった。
かつてFAXの時、彼女が俺を敢えて谷底に突き落として自力で這い上がらせたように。
彼女の意思で、彼女自身の手で。崖の上から手を差し出す俺の手を握って欲しかった。

選ばれることは叶わなかったけど、それでもこうしてまた彼女と会って話が出来る間柄にはなれた。
引っ越しても、転職しても、関わりを絶たなければ良い。何かのタイミングですぐに連絡が取れるような、そして会ったらすぐに昔の関係に戻れるような、そんな距離感になれれば良い。
そう考えていた、そんな間柄に。

寧ろ、自分の転職後は彼女から定期的に近況を伺うメッセージを送ってくれている。彼女も同じことを考えていたのだと、少しくらい自惚うぬぼれたって良いだろう。

試合には負けても勝負には勝ったのだと思いたい。

-------


それなのに。久々に会った今日も、彼女は別の男の話をする。…話題を振ってしまったのは自分だから、自業自得ではあるのだけれども。

思わず黙り込んだ俺に、彼女がひょいと片眉を上げる。

「好きだっただけですよ? それ以上でもそれ以下でもなし。」

フラれたのよ、と苦笑いする彼女。
それでもむすっとしたままの俺を見て、彼女はそれ以上は何も言わずにメニュー表を広げる。次のアルコールを選び始めた。
怒らせてしまっただろうかと様子を伺えば、彼女の口元はゆるく弧を描いており──、それを見た自分の中で何かが弾けた。

懐から煙草とライターを取り出す。此処は喫煙席だった筈だ。煙草を咥えて火を着ける。そのまま肺いっぱいにメントールの香りの煙を喫う。

とても悔しかった。
どうしても彼女の隣に立てないことが。
記憶の中の彼女がほぼ全て眩しい笑顔だったことが。
今の彼女が自分を歯牙にも掛けず、メニュー表を見ていることが。
少しでも良い。何かを残したかった。

煙草を口から離した。彼女の向かいから彼女の隣にそっと席を移す。
そして卓の上に肘をつき、彼女に声を掛けた。

「ねえ、先輩?」
「んー? どした? 何か飲む?」

移動してきたのはメニュー表を見たいからだと思ったのだろう。
何の疑いもなく顔を上げた彼女の顎に手を添え引き寄せた。そのまま彼女の口元に、「ん」と自分が一度喫った煙草のフィルターを差し出した。
彼女が目を丸くして身じろぎする。

「えっ、何を…だってこれ…」

その姿勢のまま彼女を見詰める。

「喫いたかったんでしょ?」

彼女と視線を合わせたままニッコリと笑顔を作った。

「あげる。」
「…いやいやいや! いいですいいです!」

何を冗談を…!と彼女が笑いながら逃げようとするが、こちらには逃がす気はさらさら無い。
暴挙に出た後輩に退く気が無いことを察し、彼女は観念してそのまま煙草を受け取ろうとした。が。

「ねえ。なんで手離さないの…。」

頬からも煙草からも手を離さない自分を、彼女が恐る恐る上目遣いで見上げてくる。
笑顔を崩さず、俺は言い放った。

「俺が喫わせてあげる。」

このまま喫って?と言ったところで、堪え切れず彼女の頬が染まった。そのまま口をパクパクさせる彼女の反応は予想以上のもので、俺を大変満足させた。

これで少なくとも「昔好きだった先輩」とやらは上書き出来ただろうか。
メントールの香りを感じる度に今日のことを思い出せば良い。


時が停まったように見詰め合う俺と彼女の間で薄い煙が一筋立ち昇り、ゆっくりと天井に消えて行った。


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