シャンフルーリ「日本の諷刺画」第1章:日本人の特徴
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聖フランソワ・グザヴィエ〔フランシスコ・ザビエルの仏語読み〕は、イグナチオ・デ・ロヨラに宛てた手紙で、日本人の性格と知性を大いに称賛している。「日本人について話したら、きりがないだろう。わたしの心に、本当に喜びをもたらしてくれる」
この些か甘ったるいほど好意的な評価まで行かなくとも、その開放的な雰囲気、善良な気質、何についても気前よく理解する力のおかげで、日本人がヨーロッパで歓迎されやすいことは確かだ。
日本人は背が低く、葉巻箱に入っていたかのように黄色く、しばしば酷いあばた面だが、生き生きとした問いかけるような目つきで好感を抱かせるので、そうした見た目の欠点など忘れてしまう。よく笑い、相手の調子に無理なく合わせ、打てば響く。極東のフランス人とも呼ばれてきた。
宗教や規範や風土については、既に旅行者たちによって様々な著作で探究されており、本書では必要以上に立ち入った検討はしないが、五戒つまり5つの戒律と呼ばれる短い掟が日本人に与えてきた影響については、言及しておかねばならない。それは以下の道徳的な教えに基づく。
殺生、殺すべからず
偸盗、盗むべからず
邪淫、貞節を欠くべからず
妄語、嘘をつくべからず
飲酒、強い酒を飲むべからず
確かに、この思慮深い戒律を守る者は皆、古代ローマ人の言う健全な精神は健全な肉体に宿る〔mens sana in corpore sano〕を望んでいるのだろう。他所の人種や民族を評価するのは難しいことだから、これほど道徳的な戒律を全ての日本人が遵守しているとは言うまい。しかし五戒の他にも、次のような小唄に刻み込まれた民衆の哲学を、日本人の資産と看做すことができる。
飲めや歌えや、一寸先は闇よ
落ちた花は枝にゃ返らん
この哲学から、仕事の喜びや、旅行者たちが揃って伝える独特の陽気さが生まれている。けれどもわたしは、ヒューブナー男爵の優れた『世界周游記』〔邦題『オーストリア外交官の明治維新』〕ほど生き生きとした描写を見たことがない。
「この国では全てが笑っている、空も草木も人間も。しがない駕籠かきを見よ!談笑の絶えることがない。赤銅色の身体じゅうに玉のような汗が吹き出している。数分おきに肩を担ぎ替える。一瞬の早業だ。わたしたちにはそれぞれ4人交替の苦力がついている。上り坂では、手空きのほうが駕籠を担いだ相棒の背中を手で押して助ける。10分ごとに交替するときは必ず、お決まりの礼儀正しい言い争いをする」
「――貴様、疲れておるな?――いや全然、貴様の思い違いだ」
「そしてまた笑い、あれこれ言い合いするのだ」
かつてのわが国の『善良なミゼール』〔フランスの民話〕の哲学的諦念を思わせる幸福な気質である、ヨーロッパ人のように現代的な気苦労や動揺はない。
これは言っておかねばならないが、西洋文明が浸潤する一方の国では、どれほど薄給でも充分なのだ。幾許かの金銭を貰って奉仕するときは、できるだけ熱心に仕事に参加するのが義務だと思っている。幸せなことに自分の権利など知らないので、砲弾の餌食となるよう命じられる国のように、それを口実として激しく不平不満を述べたり、叛乱を起こしたりはしないのだ。それでも、間もなく文明開化が法典や国軍や税制とともにやって来る。それこそが日本人の辿ることとなる重要な段階なのだ。だから、大名の治世で陽気さの漲っていた、日本人の過去について研究するのが相応しい。
わたしはチェルヌスキ〔イタリア出身。ローマ共和国の崩壊によりフランスへ亡命、経済学者・銀行家として財を成す。パリ・コミューンの崩壊を機に東洋周游へ出た〕による豊富な蒐集品を改めて見てきた、その蒐集品は、パリの内乱に酷く巻き込まれ、フランス気質の欠点をよく知りながらも、その美点のみを忘れまいとした寛大なる市民によって、いずれパリ市に遺贈されるはずだ。
チェルヌスキの美術館〔現在はパリ市立アジア美術館となっている〕で特に心打たれたのは、わたしの関心に適った、それゆえ他の全てに勝る小品だ。幾つかの小像には、他の民族に見出すことは難しいであろう強烈な快活さの表現が炸裂している。
理想の笑い、わたしはそれを20年ほど追い求めてきた、美学者というよりも考古学者として。その様々な形を、マッキウス〔古代ローマの喜劇作家ティトゥス・マッキウス・プラウトゥス〕から『パンチ』〔イギリスの諷刺漫画誌〕まで、古代から現代まで探し求めた。日本人は笑いの一等を争い、笑いの表出や、活力の尽きせぬ泉のように思われる限りない哄笑について論じる題材を生理学者に与えてくれることだろう。
女性の笑い、その最も伸びやかな姿は、ほとんど日本人によってのみ表わされてきた。笑顔の特徴をあらゆる形で表現し、絵や彫刻や版画で、日本女性の善良な気質を海の向こうへ届ける使命を、象牙や絵筆や刃先に込めたのだ。
ヨーロッパの女性は、ときに辛辣な諧謔で気晴らしをする。寸刻それで楽しくなる。しかし激しい笑いはないのだ、そうした哄笑は、よく考え、細心の気づかいをしながらも、「満腔の笑い」を可能とする聡明でバランスの取れた親切な性格ゆえ、ときには寛いで、深刻なことばかり追いかけるのを止められるひとのものだ(フランスで、女性が声を上げて幸せな陽気さを示すのは、ほとんど一度しか見たことがない。ある日曜、フランス座で『町人貴族』の昼公演があった。二階席で、ひとりの女性市民が、飽きるほど芝居を見ていなかったのか、無遠慮な笑いで役者や観客を困らせることなど気にせず「ありったけの喜び」に浸っていた。そのときわたしは、優しいおかめ、日本女性のうちで最もふくよかな頬の、最も楽しげな、絵師北斎やその門弟が晴れやかに描いた、人間嫌いをも笑わせるだけの朗らかさを備えた女性の声を聞いたように思った)。
歴史家によれば、笑いの神を祀るローマの神殿があったという。おかめはその神殿の女神に相応しいだろう。その神殿を詣でる、黄色い顔で額に皺の寄ったひとたちは、何と健やかな感銘を受けたことだろう!
女性というのは滑稽さを喚起しないもので、どれほど偉大で威厳ある諸氏をも諷刺の殿堂に並べてきたフランスの諷刺画家たちでさえ、女性の有名人を戯画化するのは躊躇う。
演劇においても、真に喜劇の才能を持つ女優は異例であり、二流の喜劇俳優と肩を並べられる喜劇女優すら稀に見つかる程度である。タバラン兄弟やギヨ=ゴルジュやグロ=ギヨームのような下品な台詞の露悪的な役どころを演じるために、繊細な性格を捨てて反感を買うほどにまで変わってみても、どうにもならないのだ。
おかめは、頬いっぱいに笑いが広がっており、宮廷の侍女の気品を表わしているわけではない。だが人の良さに溢れている。その喜色満面は、揺るぎない優しさを長所として持っていそうな、豊かな肉づきのふくよかな女性のように純真なのだ。
日本の古代神話によると、髪の長い太陽神アマテラス〔「髪の長い」と特記しているのは、アマテラスを男性と考えているため。仏語で「太陽」が男性名詞であることに因る誤解〕が、弟であるソラノオ〔Solanooスサノオの誤記〕の行状を嘆き悲しんで暗い岩穴に引き籠り、出てこようとしなかったとき、この善良なオカメ(本来の名前はウズメという。訛ってオカメとなった)が聖なるシストラム〔古代エジプトの楽器。五十鈴の訳語か〕を手に岩穴の入口で踊ったという。
このふくよかな女性の破顔を見た太陽神は、自身の愁訴を恥じて、再び姿を現わしたのだ。
太陽神の倦怠を払ったおかめは、他でもないこの出来事によって、日本人に愛され続けている。日本人は彼女を見て笑い、彼女は自分を崇めるひとたちの囃し立てに笑うのだ。彼女がいれば何でも許される。絵師北斎も、大きな毛糸玉と戯れる猫よろしく、彼女を面白おかしく画集に描いている。
われわれの先祖がお人よしの女性を頭のない姿で描いて満足していたのとは違って、日本の絵師はおかめの顔に洋梨形の立派な姿を与えたので、この愛すべき顔ひとつが、もうふたつの上に重なるようにして描かれた奉納額も珍しくない(わたしはこの種の額を一枚、トロカデロ民族学博物館〔パリ人類学博物館の前身〕に提供した)。
ふくよかな日本女性についてはまたあとで述べるが、その北斎の同じ画集には、タナグラ人形〔古代ギリシャで作られていた粘土像〕やジェルマン・ピロン〔16世紀フランスの彫刻家〕の女性像を思わせる、すらりと痩せた粋な女が溢れているではないか、と言う者もいるだろう。
実際、艶麗な遊女たちが、丈の長い着物を羽織って、長躯を垣間見せている。他の絵師たちが、さくらんぼのような口に咥えた小さな手拭の他には何も纏わず湯浴みする裸身として描いた長躯だ。独特の容姿で、荒々しい武士とともに恐ろしい悲劇に巻き込まれているのは、ギリシャの壷に描かれた神話の情景や宗教の秘儀の中にいる女性のようだ。
こうした魅惑の日本女性について、低く見積もられたり、あるひとりの美女に魅せられた藝術家の作り上げた想像でしかない伊達女の模範であろうと考えられては困る。
1878年にシャン・ド・マルス公園で開かれた万国博覧会には、日本女性が何人か顔見世に来た。
発想はよかった、考古学の学会というのでは些か味気ないから、ヨーロッパ各国が美女の一座を派遣することが望まれたのだ。
この異国の美女たちは東京の選り抜きであり、日本の醜女が披露されたわけではないだろうと思う。だが、ほとんど好評を得られず、貞操を守るために帯刀の護衛をつける必要もなかった。ちんちくりんで寸胴で、着物に巻かれ、あの画集の遊女のように妖艶な魅力などなかったのだ。
ほとんど話題に上らなかった。シャン・ド・マルス公園の隅っこに追いやられていたことは確かだ。だが、わたしの知る限り、新聞記者の誰も小さな日本女性たちが去ったことを報じなかった。フランス人の愛想のなさに少し気を悪くして大名の国へ帰ったはずだ。
陽気なおかめ、この極東の「グレゴワール夫人」〔ゾラ『ジェルミナール』の登場人物。小柄で太っている〕が、「酒場」を出して肉感的な姿で現われていたら、また話は違ったであろう〔実際には茶室が出された〕。
(訳:加藤一輝/近藤 梓)
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