シャンフルーリ「日本の諷刺画」第8章:北斎、その先達と後継者
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これまで日本人は幸運にも美術の学会や学派を欠いてきたが、この民族にも人間や自然の描写すべてに関する何らかの分類が必要となった。この分類は、序列のある区分けというよりは体系的な特徴づけの必要に応じてのものだろうが、それでも藝術の頂点には、ヨーロッパと同様、仏教の伝説を描く宗教画家を置き、その下に歴史的場面を描く画家、さらに下の位に風景画家、花鳥画家、そして最も下位に大衆風俗の情景を描く画家、上流階級や下層階級の醜さに辟易しながら、ときに諷刺の絃を軋ませる弓を持ち歩く画家を置くのだ。
といって、陽気な性格の日本人は、嘲笑的な表現に深く踏み込んでいるわけではない。むしろ揶揄は表面的なものだ。しかしエミール・ギメ氏によれば、ある13世紀の僧侶が略画で不敬な絵を描いていた例があるという〔実際には鳥羽僧正は11~12世紀の人物〕。「覚猷は、専ら諷刺的寓意画によって、風俗を改めようとした。大貴族の吝嗇や官吏の腐敗が、陽気で力強く惹きつけられる寓意画によって描かれた」と旅行者は述べる(『日本散策』1880〔邦題『東京日光散策』〕)。
わたしは覚猷の諷刺的寓意画を見たことはない。だから過去の大衆藝術の話題には慎重に立ち入ろう。
わたしが歴史を近回りして話そうという絵まで橋渡しして脈絡のようなものをつけるため、このフランス人の旅行者による情報を載せておく。
「16世紀には岩佐〔又兵衛〕が浮世絵と呼ばれる大衆画の分野で有名になり、次の世紀には流派を受け継いだ菱川〔師宣〕が日常生活の情景を描いて、作品の廉価版が店々で売られるほど成功を収めた。ある意味、日本のテニールスであった」
諷刺画もまた、庶民階級の風俗画と同様、とくに13世紀から16世紀にかけて代表作を生み出しただろうし、先駆者たちの名前は、全く独立しているように見えて実は同じ幹から出た藝術の二本の枝に、既に認められるだろう。
四半世紀前のパリでは、藝術家たちが取り入れていると言ってよい、気まぐれで、あまりアルカイックでない、ある作家の作品について、はっきりと言及することは控えられていた。1855年ごろ、常に新しいものを求める画家や詩人の中に、日本の織物や彫像、趣豊かな彩色の画集や一枚絵を豊富に取り揃えた店で一山当てた者たちがいた。パリ界隈には、大衆よりも遠くを見通せる眼に恵まれた、未知の物事を探求する少人数の集団が、いつでも存在するのだろう。彫刻家プレオー〔Auguste Préault〕の言を借りれば、豚にならずにトリュフを見つけられるという、そうしたひとたちは、自分の判断を大衆に認めさせ、世評に流されることなく他人の世評を作り出すのだ。その小さな集団から、真の藝術家である北斎の影響が漏れ出していた。もっと慎重なひとたちは、東京では月並みの評価しかされていないらしいクロッキーノートに対する称賛を見て、些か面白がっていた。実際、わたしの見たところ、その集団のひとたちの熱狂は、はじめ大袈裟すぎることもあった。すぐに誰かのキャンペーンを張り、飽きると放っぽりだしてしまうのだ。
北斎による一連の様々な画集は、当時その短く僅かな説明文はおろか題名すら訳せる者がおらず、そんな時期に、あらゆる美術の謎に関心を寄せ、あらゆる研究に私財を投じる、わが友フレデリック・ヴィヨ〔Frédéric Villot〕によって研究されていた。まだ若いころ、その好事家が自分で楽しむために訳させた日本の小説を報告する集まりに招いてもらったことがある。
研究動向を追いかけるには、そうしたパリの知的な集まりに出入りしていなければならない。わたしはそこで早くから情報を得、とても好みに適うものだったので、1869年には既に北斎の作品について幾らか短評を書くことができたから、その抜粋を書き写させていただこう、20年ちかく経っていても、わたしの考えは些かも変わっていないのだ。
わたしはこう書いている。「本書に掲載している日本の版画の多くは、50年ほど前に日本で亡くなった素晴らしい絵師のクロッキーノートから取ったものである。彼は多くの作品集を遺したが、最も重要な連作は14冊のノートから成り、パリにもたらされるや藝術家たちに果敢な競争心を掻き立てた」
「フランスではHokou-saïの名で知られている、このホクサイという画家によって、われわれは日本語を解さない旅行者や日本学の教授から学ぶよりも容易に日本について知ることができる。彼のノートに豊かに広がる藝術のおかげで、中国のように過去の伝統の中で惰眠を貪るのではなく、それどころかヨーロッパの工業的発見の獲得のほうへ決然と歩む国民の文明や知性を理解することができるのだ」
「そうした一般論にこだわるところではないが、これが藝術の力でもあるので、単なるクロッキーノートが開いてくれる地平について指摘せずにはおれない」
「北斎は根底から独創的な藝術家であった。幾つかの絵はゴヤの素描に似ているが、この日本の藝術家はスペインの藝術的資産を全く知らなかったと断言できる。『気まぐれ』の作者による作品は50年前にはヨーロッパでほとんど人気がなく、フランスでも知られていなかった」
「北斎は自分の天性に、母国の体制に、土地の者の習俗や風習に、自分の作品が得た人気に、自分の才能を発揮する材料を見出した。今まさに研究しているからということもあろうが、わたしは他の誰よりも彼の才能に驚かされた」(シャンフルーリ『猫』初版)〔実際には『猫』に載っている猫の絵は歌川広重『浮世画譜』のもの〕
現代では、それなりの数の華々しい作家たちが、自分の書いたものの価値に感嘆してほしいと思っている。何でも自分が先駆者なのだと率先して言い張り、自分が日本を見出したと大衆に知らしめる。そう、彼らの言い分を信じるならば、全く彼らの力だけで、それまで閉じられていた帝国の門をこじ開けたのだ。
日本の絵師の知名度はフレデリック・ヴィヨ氏やその友人たちに負うていることを、はっきりさせておく。日本についての知識という領域に深く立ち入れるようになったのはそれ以降なのだ、何も認めがたい話ではない、また、専ら北斎にかかわることは、チェルヌスキ氏の旅に同行したテオドール・デュレ氏に負うてもいる。なかなか高尚な趣味の経済学者が仏教寺院の大仏を貰って豊富な蒐集品に加えた〔目黒の蟠龍寺が火事に遭い、廃仏毀釈の時流もあって打ち捨てられていた巨大な阿弥陀仏像を、チェルヌスキが買い取った。現在パリのチェルヌスキ美術館に展示されている〕のに対し、デュレ氏はもっと通俗的な美術を好み、のちにイギリス人やアメリカ人が詳しく研究した藝術家について、フランスの識者に注目を促した(英フレデリック・V・ディキンズがFugaku Hiyaku-kei, or A Hundred Views of Fujiで、米エドワード・S・モースがThe American Art Review誌で、北斎について論じている)。
この旅行者によると、風俗画集の様式は18世紀前半の末には定着したという。その典型が、1745年に刊行された9巻本、〔橘〕守国によるジキシホウ〔『絵本 直指宝』(ねざしたから)〕だ。
「本の口絵に、降りしきる雨を避ける大きな傘を持った作者が描かれている。灯火を携えており、絵画藝術に光をもたらすこととなる本の意図を暗示しているのだろう。日本の藝術家たちがよく描くような冷ややかな雰囲気で、曲がりくねった松の大木の傍らにあるトリ〔鳥居(とりい)〕に向かっている。これこそ実に日本的な一ページであり、その50年後、北斎の最盛期にも描かれたであろうものだ」(テオドール・デュレ「日本の絵本」、『藝術新報』誌、1882〔« L'Art japonais : les livres illustrés, les albums imprimés, Hokousaï » dans Gazette des Beaux-Arts〕)〔実際には、この絵は「蟻通」の一場面で、描かれている人物は蟻通明神の化身の宮守。『絵本 直指宝』巻之二〕
こうしたフランス語その他の文献のおかげで、北斎の生涯と作品についての資料を得ることができる。
彼は1760年に江戸の本所と呼ばれる花の溢れる街区〔本所花町のことか〕で生まれた。父親はムラヨ・ハチエモン〔北斎の画号のひとつ、三浦屋八右衛門(みうらや・はちえもん)のことか。実父は川村(名は不明)、養父は中島伊勢〕という名前であった。この息子は、初期の出版物ではソリ〔宗理(そうり)〕、タメイチ〔為一(いいつ)〕、サイト〔戴斗(たいと)〕など気まぐれに幾つもの筆名を使っていたが、結局、訳せば「北の工房」となる、この絵師が住んでいた葛飾という江戸の北にある街区を表わす北斎という名に決めた(北斎は漢字ふたつで表わされる。元の姿のままに書くならば、それぞれの漢字に対応するようホクとサイに分けねばならない)〔実際には生涯を通じて頻繁に画号を変えた。北斎という画号は北辰(北極星)信仰による〕。
もっと確実な資料は、北斎の画集の中に数多く見出せる。ざっと一瞥すれば、日本の風俗や信仰についても、地勢や植物相についても、旅行者たちの報告を補ってくれる。同時に、明晰かつ雄弁な絵は、藝術家の気性や嗜好、奇想、脳裏に焼きついた光景も示してくれる。
想像力の過剰な人間のしがちなことだが、幻滅するために日本へ行って何になろう?正確な素描が、冬から夏へ、一面の緑から降り積む雪へと移ってゆく。高い山々の麓へ、海辺の港町へ、逆巻く波頭へ、水平線の釣り船を揺さぶって引き返させる不穏な雲の下へ、好奇心を連れてゆく。日本人の宗教的信仰や迷信が、予期せず現われる独特の仏教神によって描かれている。暗黒通俗劇の領域に属するであろう、戦士や架空の怪物、迫害される姫君は、より空想的である。
日本女性は、世界五大陸に女性は一種類しかおらず、同じような気まぐれ、同じような媚、同じような軽薄さが頭を一杯にしている、と言うフランスの諷刺家も尤もだと思わせてくれる。北斎は、化粧に念を入れ、洒落た着物をつけ、自分を美しくすることにすっかり夢中な江戸の女を描いている。
遊ぶ町民や働く農民を見たいと思われるだろうか?その素描では、彼らの様々な姿に驚かされる。同様に、物乞いや煙草喫み、旨いものを食べ過ぎて太った者、悪癖で身体を壊したらしい痩せた者も描かれている。軽業師や道化師や百面相は、パリと同じくらい江戸にもいるのだ。北斎は彼らの曲技や藝当や仮面を明らかにしてみせた。
幾何学や線画を学校でどのように教えるか示すため、この絵師は操り人形の劇団を横にやって、くっきりとした輪郭をなぞり、気まぐれなのと同じくらい教科書的にもなる。ある旅行者(シャルル・ド・シャシロン男爵『日本、中国、インドに関する覚書』1861〔Charles de Chassiron, Notes sur le Japon, la Chine et l'Inde〕)によって伝えられた初期の画集のひとつを見れば、テオフィル・ゴーティエの言い分が正しいことは明らかだ。
「日本人は藝術感覚を持っている。その嗜好は中国人のように空想的でも怪物的でもない。シャシロン氏は著作に、大衆的かつ学術的な小論から引いた図版の写しを載せている。そこには動物たちの性質や動作や表情の特別な理解によって木に彫られた自然史の版画が見られる。四足獣や鳥や魚や爬虫類や虫が、生き生きと自由で見事な描線で示されており、どんなヨーロッパの藝術家もこれより上手くは描けないだろう。畑仕事の版画も面白くてためになる」
「諷刺画は、最も面白味のある滑稽な言動と、人間の愚かさについての深い認識を示してくれる」
北斎を巨匠たらしめる資質とは、最も厳しく限定された構成のうちに立派な風情を作り出す術を知っていることだ。象や冠雪や海が、ささやかな画帖の上に自然の雄大な姿を描き出し、地味な色調によって浮き立つ一種の朦朧とした墨絵によって、あらゆる効果がさりげなく得られている。これより上手く言うことは何もない熱狂的な叙述家にも儲けを残しておくため、絵師・版画家の技法について、これ以上は分析しないことにしよう。
北斎が『漫画』の第一巻を出版したのは1810年であった。「日本語で「漫画」という言葉の表わす概念は、フランス語では「素早い粗描」や「一筆での素描」となろう」と、旅行者〔デュレのこと〕は述べている。
北斎は東京で1849年に89歳で没した。
長い生涯の間に、ゴヤやローランドソンやドーミエと同時代人になった。この3人の名前が筆から出てきたのは、きっと日本人は知らないであろう有力な諷刺画家たちを密かに連想したからだ。ただ、国どうし人どうしを結びつける同時代の確かな流れが存在する。日本は、前もって啓蒙と進歩の様々な呼びかけを聞くことなしに、半世紀で突然ヨーロッパ文明の道に入ったのではなかった。北斎は、スペインの『気まぐれ』や、イギリスのローランドソンの色事という主題、ドーミエの強烈で感嘆すべき石版画を生み出した風変わりな想像力を、知らずのうちに享受していたのだ(ある美術愛好家が次のように述べているのも、この思想の流れのことである。「北斎は、今世紀の思潮の中で生き、自身のうちにホガースやカロやゴヤの才能を凝縮していた。大名や侍、旗本、役人、娘、藝者、力士、役者、曲藝師、奇術師、動物、魚、鳥、虫、爬虫類、花、日本の景色を、色褪せぬ生彩で「素描」した。動作の活力や表現の激しさが極限まで強調されている。極東の類型や風俗を忠実に明かしてくれる画集には、古き日本が次々と仙境のようにも悪夢のようにも現われる。わたしは彼の素描よりも確実で幅広く熱烈で諧謔のある普遍的なものを知らない。世界で最も偉大な絵師のひとりである」(ル=ブラン=ド=ヴェルネ『藝術と文学の日本』1879〔Frédéric le Blanc du Vernet, Le Japon artistique et littéraire〕))。
そうした大画家と同様、老北斎は自分の仕事に満足し、おそらく自分の作品が時とともに広まることを確信して「北の工房」で亡くなったのだろうと思う。わたしは、わが国の最も有名な戯画家のひとり、アンリ・モニエ〔Henry Monnier〕が亡くなるのを見た。最期まで仕事を続け、独立独歩、つまり貧乏であり、愚かさや、籠の中のリスの神経質な動き、無節操な望みを叶えようと人間が進んで嵌める首枷、名誉欲、地位争い、金銭欲といった、多くの者を強者に対して卑屈に、弱者に対して傲慢にするものを、消えない線で描いたことを誇りとしていた。
北斎は政治諷刺画よりも風俗画に没頭していたようだ。「見張り役の長」〔番頭の直訳か〕という異端審問官のような肩書の、治安維持を担う役人を尊敬していたのだろう。北斎の作品には、タナグラ人形の纏うものにも似た、上流階級の女性よりも娼婦の優雅さや美しさに捧げられる、一種の女性崇拝を感じる。江戸にも遊女はおり、吉原地区に隔離されていた。戯画家たちは風紀に関しては全く手厳しくなかった。美しい女は滑稽な人物画と対照を成し、人間の醜さから逃れるのに充分であった。
北斎は風俗画に専念し、非常に繊細な筆致で描いたと、旅行者〔ギメのこと〕は言う。色刷り版画として出版された作品は、公立の学校で手本として用いられた。中国のオクソオ派〔北宗画のこと〕と日本のカノエ派〔狩野派のこと〕の大胆かつ迅速な技法を巧みに概括し、さらに鋭敏な観察眼と、最も平凡な情景を描くときでも多くの日本の藝術家が特性として持っている洗練された感性を加えたのだ。
北斎は死後に流派となった。絵師たちは、老大家が自然と向き合うときの眼差しを受け継いで、その跡をなぞり、真似し、その画帖は『漫画』と見まごうこともあるほどだった。デュレ氏が何人か挙げている。文鳳の『漢画』は「面白い情景の小さな絵」であり、墨僊は1840年ごろ「最も滑稽で剽軽な格好の人々の本」を刊行した〔墨僊は1824年に亡くなっており、何を指すのか不明〕。『尾張名所』(1844年、全8巻)には戯画が載っておりわれわれにとって貴重だが、その種の作品では最も申し分ない『江戸名所』(1837年、全20巻)には負ける。
しかし、われわれが真の日本の諷刺画家を知るのは、エミール・ギメ氏によってである。江戸(今日の東京である、日本人にとって江戸はもはや用いられない古びた呼称なのだ)の街を歩いていると、ギメ氏と、同行者で画家のフェリックス・レガメ氏は、日本人が作者の名を言うのを躊躇ったり拒んだりする、型破りで反宗教的な戯画を売っている店をよく見かけた。結局、フランス人の旅行者たちは、その名が暁斎であると分かった。
ふたりは彼に会いに行った。その藝術家は大君の画家であるカリノ〔狩野(かのう)派〕に学び、技巧で有名だった。ある歳になって、師匠の画風には辛辣さと奔放さが欠けていると気づき、教師に甚だ失望して、戯画を描き始めた。しかし同時に過度の飲酒癖をつけ、それ以来、日本で重んじられている慣習を気にすることなく、独創に生きるようになった。以降、作品に署名する号は「狂」を表わしている。そして、絶えず酒を飲むという伝説の猿ショウフウ〔猩猩(しょうじょう)〕に因み、呑んだくれの狂った猿という意味でショウフウ=キョウサイ〔猩々狂斎(しょうじょうきょうさい)〕と号した。
これが、社会の外に暮らし、情念を恃みとしながら、法や慣習に対しては不羈を示すことに自らの才能の本質的一要素を見出したと信じる、非凡の藝術家なのだ。
ショウフウ=キョウサイは、おそらくあまりに果敢な政治諷刺画のため、何度も投獄された。というのも、シャシロン氏は次のように述べているからだ。
「諷刺画について、政府は無制限に黙認したのみならず、自由さえ与えた。政府の影響下で、手中に収めておくことで、どんな階級の役人を攻撃してもよいが、君主にまで至らない限り、その自由は内政に有効な手段となった」
暁斎は然るべき限度を守れなかったのだろう。娑婆にいるときは、東京近郊の、木と藁と紙でできた2部屋6平米の小さな家に住んでいた。
「……われわれを迎える女性ふたりが額づくと、玄関は完全に塞がってしまう。もうひとつの部屋は工房で、光に満ち、巻紙や筆や色墨の箱で埋まっている。おかしな面が2つか3つ、哲学的な格言を飾った額、そして台の上には太古の土焼きの怪獣と縁起物。それらは家の守り神だ。その前には菓子と酒が供えてある(酒とは米でできた蒸留酒で、ぬる燗で飲まれる)。部屋は、周りを取り囲み、中にも入り込んでいる庭のおかげで明るくなっている。木の枝が建てつけの悪い仕切を突き抜けている。尻尾を切られた子猫が、いつものごとく、紙の山に登ったり水差しをひっくり返したりしている。訪問中、土焼きの神に捧げられた菓子を猫が横取りしてしまった」と旅行者は書いている。
「藝術家は、われわれが訪ねて行ったことに、とても喜び心動かされたようだった。彼は絶えず左手で右腕をさすっていたが、それは日本人にとっては大きな心配や困惑の証なのだ。同行の通訳に助けられて話していると、少しずつ一座が楽しくなってきた。暁斎夫人がお茶と菓子を運んできた……」
レガメ氏は暁斎に、肖像画を描かせてほしいと頼んだ。この名誉に感じ入って、諷刺画家も同じように訪問者の肖像画を描いた。こうして初めて、この下層階級の画家、エドガー・ポオがアメリカの同国人を驚かせたのと同じくらい東京の同郷人を驚嘆させる狂人の実際の姿が、われわれに示されることとなったのだ。
(訳:加藤一輝/近藤 梓)
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