フジュレ・ド・モンブロン「ガリア人の首都あるいは新たなるバビロン」

【原典:Louis-Charles Fougeret de Monbron, La Capitale des Gaules ou la Nouvelle Babylone, 1759】
【放浪の諷刺作家ルイ=シャルル・フジュレ・ド・モンブロンが、晩年にパリの堕落を難じた小冊子です。都市の頽廃とは虚飾と実態の乖離であり、その最たるものが賭博と演劇だと考えているのは興味深いところです。なお本編に対する批判に答えた続編(Seconde partie)もあるのですが、拙訳では割愛しました。フジュレ・ド・モンブロンの人となりについては『修繕屋マルゴ 他二篇』の訳者である福井寧氏の解説をお読みください。本文中の()は原文にあるもの、〔〕は訳註です】

パリは楽しく便利に暮らすには世界で一番の都市であり、欲しいものはおおよそ何でも見つかる地上の楽園だという話を、毎日のように耳にする。確かに、欲しいものを手に入れる術に事欠かないなら、そのとおりだ。だが、この地上の楽園は、とりわけ不幸者にとっては責苦の地となる、なぜなら自分と全く関係ない豊かさや楽しさ、喜び、祭りを目にして、自身の不幸や困窮の恐るべき姿を、まざまざと思い起こさせられるからだ。

貧しくも徳の高い方は、パリに住んではいけない。この大都市の内奥には、三つの支配的な身分が隠されている。金融業者、無数の遊女、そして謀略家。あらゆる物事を動かし、あらゆる場所で主導権を握り、高い地位を占め、立派な方々と呼ばれている。残念ながら、この格別に立派な方々が上手く立ち回りすぎて、もはや正直者には悪者がどこにいるのかほとんど分からなくなっている。

かつては、質素で慎ましい雰囲気、品位を保った素行や習慣が、尊敬を受けるための確かな後ろ盾となっていた。流行は変わった。今日では、多大な厚かましさと気忙しさ、不遜な態度、衣服、宝石、出費なのだ。あれこれの輝かしい資質に、ひどい詐欺師、借金に埋もれて破滅した男、手を尽くして盗み、奪い、100もの家を貧困のきわみに追いやった恥知らずな男の名声を加えてみよ、それが当代の人気者、好まれ慕われ羨まれる男、つまり誰からも引っ張りだこで、大勢の一流女性たちの頭をくらくらさせてきた男なのだ。

愚かな不信感が瀰漫し、ためらいなく新たな知人を得ることのできない時代があった。

野蛮人の風習だ!じつに卑しい!今ではもっとよい生き方が知られている。人間の皮を剥いで正体を知りたがるのは、些事にこだわることだ。然るべき外見をまとい、いつでも女性たちの遊びに加われるようにせよ。あらゆるものにレース飾りをつけよ(かつて、ある金持ちの女性が、一枚布の服を着ていた紳士を前に、レース飾りなしで屋敷に現われるなんて考えられない、と言った)、レース飾りなしの姿を見せるなんて、小金持ちの最底辺、最も恥ずべきならず者だ。そして、ヴェルサイユやパリの裏話に通じているよう心がけよ。美男子でも、パリのマレ地区やフォーブール地区が頭に入っていなければ、野次られて当然なのだ。軽快で陽気な発言に、上質の機知と博識で色づけせよ。演劇や新刊について縦横無尽に語るのだ。裁きの席でパルナソス山の申し子たち〔詩人のこと〕を引用し、評定し、美点を褒めよ。もっとも、安心したまえ、誰もあなたが誰だか訊ねはしない。誰がそんなことをしようというのか?あなたは流行に乗っている。自分を立証したのだ。下級貴族が、あなたと席次を競っても、無駄である。輝かしい血筋、優しい性格、気高い感情、洗練された知性の使い方、こうした長所はすべて、あなたと向き合うと完全に失われてしまう(収税吏の女たちが、無遠慮にも若いドイツ人貴族について言っていたことだ。大貴族が下級の者とつき合うとそうなるのだ)。けっ!然るべき地位の女性、徴税請負女は、優しいから下級貴族と一緒に退屈してあげるだろうか?ああ!外国人みたいだ!そんなやつと仲よくできるか?ゲルマン人のもとへ送り返せ。

わたしはブルータスのように叫びたくなったものだ。ああ、わたしがすべてを捧げた美徳よ、お前はただの絵空事、空虚な幻でしかないのか〔ブルータスの最期の台詞「美徳よ、お前はただの言葉でしかない」のこと〕?ひとびとは美徳が声高に謳われるのを聞くのが好きで、美徳に敬意を払っているように思われたがっている。そんなやつら皆に災いあれ。心中で罪を認めずして美徳を見つめることはできない。美徳の存在は、心の腐敗を告発する無言の証人だ。それ以上は必要ない。そいつはもう非難されている。実際、誰も道徳を持っていないのに、あえて道徳を持つなどということが、許されるのか?何という不作法だ!

ともかく、パリだけは恵まれている。目の前に千もの実例がある。パリから数里離れたところではパンも靴も手に入らないような者が、素晴らしい秘訣によって、この街では毎年数万フランを浪費している。さて!どうやって?当てられるなら当ててみたまえ。

警察は、日々の事件や話題を、すべて正確に把握している。いかがわしい人物、いつも無職の者、カフェの常連、風来坊、要するに社会のおこぼれで食っている意地汚いダニを、すべて知っている。何でも知っていながら、知っているそぶりを見せない。もうひとつ、見抜くべき謎がある。ああ!最も破廉恥な手段を使って上手いこと成功できる、美味しい場所だ!

アルモリカ〔ブルターニュ地方の旧名〕では、食い扶持のない貴族が、剣をしまい、自らの腕で仕事をし、威厳など眠らせておいて、運が味方するのを待っている。パリでは、財産のない男は、恥と遠慮を捨てるだけでよい、名誉など眠らせておいて構わないのだ。少しでもそう考えれば、自分の瘦せ衰えた取るに足らない卑屈な名誉は、また肥えて光り輝く。それはもはや、人前に出るのを恐れ、門番にことごとく侮辱されるような、内気でおぼろげな名誉ではなく、あらゆる家に招かれ、階段の下で出迎えられる、際立った名誉となるだろう。この紳士が、三度も四度も晒し刑にされ、あやうく絞首刑にまでなりかけたことなど、もはや思い出す者はいまい。まったく!そんな不幸を思い返すより、もっと他にやることがあるのだ。それに、ここでは名声は爪のように再生する。彼らの汚名が社交界から流し去られ、いまや世界で最も立派な人士となり、教区、侯爵領、邸宅をいくつも持ち、その息子たちが市民の中で別格の地位を占めているのは、毎日でも出くわすことだ。

水銀よりも銀貨によって浄化される血ほど腐ったものはない。

ラケダイモン人〔スパルタ人〕は窃盗を奨励し、気乗りせずに盗みを働いてあっさり捕まった者を罰した。パリでも事情はほぼ同じだ。不器用な者、哀れな下級の新米は、しばしば些細な悪事のために絞首刑となるが、プロの詐欺師、略奪に長けていると名高い者は、確実に無罪放免である。問題は、破産を申し立て、どこか化外の地に引きこもることだけだ。そこから債権者と交渉し、数ヶ月後には協議の上で合意に至り、少なくとも財産の3分の2を差し出す。こうした隠遁を三度四度と繰り返すことで、悪党は残りの人生を実直な男として生き、一家を立派に養える。こうした者は、機転が利く、と自称している。そして周りも異口同音に、頭が回るとか偉大な働き者だとか言うのだ。そいつは財産を蓄えた……。ただ、わたしには、泥棒とか極悪人とか恥知らずとかいった叫びが聞こえるような気がする。静粛に!善良な方々よ、静粛に!わたしはあなたがたに言う、さて!答えてくれ、もしあなたの言うことを聞いて、そんなつまらないことで世界に難癖をつけようとしたら、仕事や生業はどうなるんだ?

ある大将は、あちこちから苦情を受けていた軍需商人を呼び出し、最大限の社交辞令として、絞首刑にするぞと脅した。軍需商人は落ち着いて答えた。閣下、10万エキュを思いのままにできる者を絞首刑にすることはできません。するとふたりは小部屋に入った。しばらくして、大将閣下は、そいつが完璧な紳士であり、異論の余地はないと確信して出てきた。これは、隣人の行動を早急に判断したり、話を聞かずに非難したりしてはいけないという教訓を、われわれに伝えてくれる。金融業者を詐欺師呼ばわりするのは至って簡単だが、証明するのはそう簡単でない。

パリでは、何も持っておらず何もできない者にとって、賭け事が大きな救いとなる。資産や職業や任務の代わりとなるのだ。あらゆる立場の者を集め、大貴族にも細民にも、頭の回る者にも回らない者にも、一種の平等が保たれる。かつて専業の賭博師は恥だったが、今では誰でも参入できる立派な職業であり、あちこちで門戸を開いている〔モンテスキュー『ペルシア人の手紙』第56信に同様の記述がある〕。公序良俗にとっては不名誉なことだが、パリには200軒の賭博場、いや200軒の伏魔殿があり、ペテン師とカモが集まっている。前世紀の伯爵夫人や男爵夫人が、この危険な博打宿を仕切っている。相応の詐欺師は、たいていそうした年老いたシビュラ〔アポロンの神託を受ける古代の巫女。異教の女預言者であることから魔女のイメージにもつながる〕の名のもとで、賭博場を開いている。胴元になってチップを集めている。働きぶりを見るのは何より楽しい、とりわけ良家の子息や外国人が策にはめられているときは。じつに礼儀や配慮や親切をもって身ぐるみを剥いでいるではないか!何という心づかいと優しさか!何という甘言か!身ぐるみを剥がされた哀れな男は、最後のシャツを脱がされてまで、お礼を言いそうなほどだ。この種の泥棒について、わたしはトゥールーズで、すべての司法裁判所で真似すべきであろう厳しさの模範を見た。ランスクネの騎士〔カードゲームでいかさまをする者のこと〕が、パリでは大したことでない手わざのために、鞭打たれ、焼印を押され、6年間の漕役刑に処された。死刑にせよという判事さえ何人もいた。多くの者はこうした判決に抗議するだろうが、わたしは喝采を送りたい。

強欲と贅沢が、あらゆる場所で賭場を開いている。パリの家賃の4分の3がカードゲームの上がりで賄われている。それぞれの家庭に固有のつきあいがあり、日常生活の基盤となっている。夕食に招くのも、いっぱいのポケットで割前を支払いに来てもらうのも、同じことだ。だから賭け事をしない者はどこかへ行く必要もない。そんなやつのための食卓はないのだ。実際、女性と一緒に散財する気づかいのない男は、一体どこの国から来たのか?そんなやつの何がよいのか?そうだ!そんなやつを会食に招いてみよ、たちまち食卓はたかり屋と寄食者だけで埋まるだろう。

女性が賭け事に熱中するのは、好きなだけ騙せるという特権があるからだ。いかに彼女たちの手さばきが雑でも、それに気づいたり、ましてや文句を言ったりすることは許されない。社交の場で野暮ったいとか口うるさいとか思われるだろう。素直に取られるがままにし、不機嫌な様子を見せず、一言も漏らさないようにすれば、魅力的な男性となる。厳しい条件だ、しかし女性たちの優しさを思えば、いくら支払っても高すぎることがあろうか?

賭け事のいかさまが女性たちの手癖なっているとしたら、放縦と遊蕩もそれに劣らない。ボワローが、彼の時代に淑女は2人しかいないと数えあげていたが〔『諷刺詩』第10篇〕、今日だったら彼は何人まで数えられるだろうか、考えてみたまえ。間違いないのは、かつては女性を飾るものであった恥じらいやたしなみ、奥ゆかしさや慎ましさが、しばしば見栄や身勝手、そして最も恥ずべき売春の特徴を持つあらゆるものに取って代わられているということだ。婚姻の秘跡を除けば、淑女と呼ばれている女性と娼婦と呼ばれている女性の間には、何の違いも見出せない。

われわれの親世代には、結婚は真の幸福と生活の安寧への道として望まれていた。神聖で立派な結びつきが、互いの尊敬と愛情の上に成り立っていたのだ。彼女は貞淑か?彼女は慎ましいか?彼は正直者か?と訊ねた。それで充分だった。今世紀には、こうした資質は望みすぎだ。あの男は金を持っているか?あの女は金を持っているか?残りは神様の思し召しだ。寡婦資産権と持参金、問題はそれだけだ。結婚は純粋に利益の問題となっている。返済にも、土地を片づけるにも、召使を増やすにも、妻や夫が必要だ。人間が家具のように取引され、最高額で入札した者か最後に入札した者に、あっさりと自分を差し出す。

何という堕落だ!もっとも、これは贅沢の副作用なのだ。無邪気で善良な道徳を破壊する下劣なあなたは、国家には贅沢が必要だと、どんな顔をして主張するのか?アッシリア人、ペルシア人、ギリシャ人、ローマ人の例を見ても、そのような危険な格言は間違いだと気づけないなら、贅沢になったことで国家が得たものを見てみよ。贅沢は千もの泉を流路に乗せ、肥沃な運河があらゆる場所へ豊かさをまき散らし分配していると、あなたは言うだろう。むしろ、贅沢はあなたを苛む強欲を野に放ち、あらゆる所有物の只中にいながら、あなたは祖先の百倍も貧しい、と言うべきだ。確かに、あなたの祖先の持っていた金額は少ないが、必要なものはもっと少なかったから、欲していないものに本当に恵まれていたのだ。

贅沢はあらゆる政体にとっての壊疽である。最初は気づかぬうちに進行し、高貴な部分にまで広がって手遅れになってはじめて痛感する。わたしより先に誰かが言っていたと思うが、役に立つ真理はいくら繰り返しても過ぎることはないし、どれほど平凡な成果であれ真理のもたらす小さな善は常に善である。わが国の製品、趣味や楽しみのための作品、わが国を他国より抜きん出るものとするあらゆる贅沢品が、いくら褒めそやされていようとも、すべて王国にとって有益ではなく有害であると、わたしは主張する。なぜなら、われわれはあまりに多くの贅沢品を消費しているし、まともな政策ならば贅沢品は輸出にのみ向けられるべきだからだ。しかし、外国人はわれわれの流行など気にかけなくともよいのだから、われわれが自ら手本を示さなければ、薬を売るきっかけ作りに自ら毒を飲む売薬行商も同然となる。

もしわれわれの軽佻浮薄で愚かな精神が隣国人たちを魅了し、われわれと同じくらい狂わせていなかったら、フランスはとっくになくなっていただろう。

パリに金を運んでくるのは外国人だといわれている。パリで贅沢や娯楽を禁止したら、外国人が来なくなり、商売が成り立たなくなる。わたしの答えはこうだ、もしパリに来るのが外国人と呼ばれるにふさわしい者だけであれば、この反論はもっともであり、贅沢はおそらく必要悪であろう。しかし、それなりの姿でパリにいる本物の外国人が例年20人や30人を上回らないのは確実で、多くはないはずだ(各国の大使をここに含めてはならない)。それ以外の者は、便宜上よそものと称されているが、みな王の臣民であり、その数は都市の住民の半分以上を占めるほどに増えている。

したがって、パリの栄耀栄華を本当に支えているのが、内国人〔régnicoleアンシャン・レジームにおいて、しかるべき権利を持った「国民」をいう用語。帰化した外国人を含む。⇔外国人・よそものétranger〕のせいで飢餓に陥っている地方の貧困と疲弊に他ならないことは、納得されよう。快楽と自由に魅せられてパリを訪れ、一家を何年も立派に養えるだけの金額を二晩か三晩のうちに節操なく使い果たす者が、毎日どれほど多く見られることか!何と多くの堕落した父親が子どもの財産を食いつぶしていることか!何と多くの子どもが放蕩に耽って父親の遺産を使い果たしていることか!どれほど多くの若者が、将来は地方で立派な職に就くはずで、そのことに家族も最上の期待をかけていたのに、無知と声望とともにこの危険なバビロンへ来て、全財産を失ったか?要するに、この不浄の地へ足を踏み入れる前は、あらゆる美徳の芽を心に秘めていたのに、足を踏み入れて以来、罪を償うために、最も不名誉で屈辱的に死ぬこととなった者を、どれほど見ただろう?

これらの例はことごとく何の結論も引き出さない。わが国の政治家は、贅沢はパリの魂であり、国家の必要収入のための限りない財源であり、パリだけで50の都市を合わせたよりも多くの金額を支払っている、と判断した。もっともである。しかしパリは、どうやって、誰の犠牲によって支払っているのか?その資金源となる運河が干上がって枯渇しても、富は尽きないのだろうか?

体液が調和し、四肢に均等に循環することが、肉体の力と健康の大前提だ。これは、いかなる種類の国家についても同じである。もし国家の各構成員が各々の役割に応じて全体の維持に貢献しなければ、もし中枢や頭が他の部位のための栄養で自分を肥やそうとすれば、つまり他の部位を消費するのであれば、今度は自分が消費され、ついには栄養不足で全体が滅びるだろう。

したがって、国家の全ての構成員に活動と循環を回復させなければ、国家の陥っている麻痺や無気力から抜け出せないのだ。大都市の贅沢を破壊せずして、そうした状態を克服できると思ってはならない。だから、何も躊躇うべきことはない。

猥褻と堕落が広まった根本的な原因は、劇場にある。演劇は、われわれを悪徳に浸したパンドラの箱だ。劇場を擁護する者たちが、舞台は知性と感性を作りあげ、素行を和らげ、洗練させ、矯正し、感情を清め、魂を高めて英雄精神へと導くものだと、むなしく主張している。詩人や道化師の隠語、紋切型、古びた流儀、これらは馬鹿げた偽物であると、われわれは自身の経験から充分すぎるほど知っている〔この前年(1758年)にルソー『演劇についてのダランベール氏への手紙』が刊行されている〕。

当然ながら、労働を嫌いにさせ、民衆を仕事から遠ざけ、惰気を抱かせ助長するものが、よいはずがない。さらには、ごく当然ながら、演劇や、あらゆる軽薄な見世物は、逸楽に耽らせ、快楽への欲望を刺激し、労働への反感をもたらすだけだ。したがって、この種の娯楽が最も危険な結果をもたらすこと、公序良俗のために禁止すべきであることは、明らかなのだ。

劇場や演劇公演の狂乱は、早急に鎮めなければ、たちまちパリが役者と道化師だけになるほどの状態に達している。あちこちで演劇が上演されている。あらゆる職業を虜にする錯乱状態の広まりだ。仕事で誰かの家へ行くのは無駄足だ。亭主は誰にも会わず、自分の役を研究している。こちらでは、市民の争いを解決し、財産や生命について裁定する役を割り当てられた男が、トリヴェリーノ〔コンメディア・デッラルテ(イタリアの仮面喜劇)の役のひとつ。アルレッキーノにも似た狡猾な道化役〕の服を着て、自らの品位を下げ、堕落している。あちらでは、デュフレーヌ〔Quinault-Dufresne 1693-1767〕のごとく優れた役者であり、また劣った戦士でもある軍人が、敵の迫っているときに怒れるアキレスを演じている。また別の場所では、横柄な徴税役人が、本来の性格であろう卑屈な小姓の役ではなく、粋な侯爵を演じている。しかし、愛が喜劇の基本であり精髄であるのだから、女性も腕をこまぬいてはおらず、最も熱のこもった演技と最も強い関心が女性をめぐって展開されることは、ご存じのとおりだ。だから、わが国の女性の多くが善良に育ち、自身の務めを学ぶのは、この純真な学校だ。恋心を持ち続け、計略を仕組み、装い、見せかけ、策を弄して、母親の監視の目を逸らし、夫の嫉妬心を騙くらかし、貞淑という厳かな仮面の下で最も恐るべき裏切りをはたらく、大事な技術を学ぶ。つまり、女性が美徳の論理と悪徳の実践を学ぶのは、この示唆に富む学校なのだ。

偉大な劇作家たちの格言が悪用されているとして、それは劇作家のせいではない、と言われるだろう。コルネイユやラシーヌやクレビヨンやヴォルテールは、清らかな行ないに反すること、最も厳格な道徳の規則と原理に適わないものは、何も書いていない。なるほど、しかしコルネイユやラシーヌは自らの藝術のむなしさを知っていたし、自身の才能を最良の方法で使わなかったのを後悔していた。彼らは気づいていたのだ、ほとんどの者は、無益な場所に集まって、豪華絢爛な見世物で目を楽しませ、自分の装いを見せびらかしては互いに文句を言ったりけちをつけたりしているだけだと。また、道徳も心もない守銭奴が、美しく繊細な感情による比類ない場面を物語ることを仕事にしていたり、下品なために評判を落としている女が、大胆にも最も高貴で立派な姿をまとって貞淑な女を演じていたりというのが、いかにおかしなことであるか気づいていたはずだ。そのような見本は、よいものに対して嫌悪感を抱かせるばかりだと、彼らが予見していなかったはずがあろうか?実際、信義、人間性、勇気、真の愛といったものが、恥ずべき者を使って喧伝されたら、それらは単なる絵空事や作り話だと思わない者がいようか?水の自然な清らかさを保ちたければ、泥まみれの運河では駄目だが、そこを通さざるをえないのだ。したがって、コルネイユ、ラシーヌ、クレビヨン、ヴォルテールの演劇は、読むには素晴らしいが上演を見るのは破廉恥だと、わたしは結論づける。モリエールやルニャールなど今世紀の著名な作家たちの演劇についても同じだ。演劇という分野においては優れた作品だが、書斎劇であって、善良な道徳も、情熱の生き生きとした描写や役者の魅惑的な演技が光を浴びて生み出す有害な影響とは釣り合わない。

暇さえあれば迷惑きわまりない過激なことをしでかす無為の徒が無数にいるから、そいつらを熱中させておくためにパリには見世物が必要なのだ、と反論されるであろうことは承知している。この理屈によれば、無為無職の者は恐るべき集団で、国のためにも丁重に扱うべきだ、となる。それは怠け者に必要以上の栄誉を与えている。

劇場を打ち壊し、カフェを閉鎖し、儲けを期待してペテン師とカモの集まる恥ずべき家を容赦なく潰すのだ。公道を開放するのは祭りの日だけにせよ。勤勉な市民は仕事の日には漫ろ歩きなどしない。そして、怠け者を追いまわし、逃げ場をなくせ。そうすれば人間のくずはたちまちパリから一掃され、農民が堆肥で土地を肥やして豊かにするように地方で役立てられること請け合いだ。

ここでは懶惰や悦楽と結びついている聖職者と聖職禄受給者の大群も、自分の家に戻って収入を使うようになるだろう。職も女も持たず、司祭という名で呼ばれ、どこでも受け入れられるがどこでも軽蔑されている、いかがわしい動物の群れもまた消滅し、ばらばらにされることで真っ当な人間となるだろう。その祖国のために身を捧げる軍団は、いつでも皆の目につき、家族のもとで、持ち場によって栄誉を受けるのだ、生臭坊主や俗物司祭と同じくらい十字勲章を見かけるパリでは浴することのできない栄誉である。どんなに貴重なものでも、いつも目の前にあれば、すぐに関心を惹かなくなる。わが国の三文文士、文学者とか才人とか称している者たちも、国を去るだろう。平凡な作家である彼らは、やがて地方で優秀で役に立つ職人となるだろう。より多くのことができる者は、より少ないこともできる。というのは、いくら靴を上手く作るのに才能が必要だとしても、悪い本を作るにはもっと才能が必要であると、わたしは思うのだ。だが、すべて差し引きすれば、優れた靴職人のほうが下手な作家よりもましだろう。靴職人には食い扶持があり、作家には何もない。

パリに溢れ、軍隊の構成員となっている無数の召使たちが地方に散らばり、農業が往時の活力を取り戻し、程なくして、われわれが高い金額で輸入しているものを隣国に輸出できるようになるだろう。政府が本当に必要としているのは、政府に資するこうした兵士と農民の組みかえである。

国の名士たちが地位に相応しい従者を持つのは、この上なく正当なことだ。わが国のお偉方もそうしている。しかし、民衆の汗で肥え太ったろくでもない徴税請負人たちが、それぞれ30人の怠け者を従え、馬小屋に60頭の馬を持ち、華美な服装やパリ一番のごちそうを誇っている。彼らよりも軽蔑すべき美食家たちから、毎日食卓でおべっかやへつらいを言われている。つまり、わが国の公爵が1年かけても使いきれない金額を、2~3ヶ月のうちに費やしているのだ。心ある人間、人間性を重んじる者なら誰でも、見たら憤りを覚えるほかない浪費だ。

あるとき、この猛禽類を称賛する者が、彼らを国家の礎と呼んで低俗なご機嫌取りをしていた。国家にとって彼らは、不幸者にとっての首吊り縄も同然だ、と言い返す者がいた。何と正確な返答か!これだけでエラスムスによる諺すべてに匹敵する。

多くの者が、贅沢を治すには課税しかないと考えている。しかわたしは、その治療法は下策中の下策で、火を消すために油を注ぐようなものだと思う。金融業者や新参の成金ほど傲慢な動物は(狂信者を別として)いないので、どんなに税金を課そうと、節約など期待できない。特別裁判所を作ってスポンジのように彼らを絞ったところで、略奪欲をかき立てるだけで、つけは貧しい者たちに回されるだろう。

木を枯らすには根元から切ることだ。枝葉を切ったら木は強くなる。贅沢は打ち倒さねばならない、枝ではなく根元を攻撃せねばならない。しかしどうやって?これほど簡単なことはない。きちんとした奢侈取締の法律を作るのだ。とくに身分をはっきりさせよ。これまで不名誉にも群衆にまぎれこませていた貴族を、これからは何か特徴的な目印で見分けられるようにしよう。とりわけ司法官には特別な目印をつけて、小売店の主人が上着を着ているために司法官と同じく尊敬されることのないようにしよう。より安楽な生活を送ろうと、また無礼を働いても報いを受けない甘い特権を享受しようと司祭の服に隠れている者を見つけたら、厚かましくも聖職者の権利を侵害したとして、身体刑を受けさせ変装をやめさせねばならない。

女性については(贅沢に熱を上げて全てを失うのは女性であるから)、宝石をつけてよいのは貴婦人と令嬢だけにして、娼婦や女商人や裾短の女とは区別すべきだ。街場の女が、重要人物かのように振舞い、畏れ敬うべき女性に対抗するのは、品がよくない。

こうした賢明な規則によって、すべてが自然の秩序へと戻るだろう。主従関係が再び確立されるだろう。泥から出てきて、不純な血で貴族の血を汚し、われわれを雑種にまみれさせる者たちが、ついに目を覚まして思い上がりを捨てるのを、誰もが驚きをもって見るだろう。個々人は各々の領域に閉じこもり、虚栄心や見栄によって奪われていたものを、自身の生活費や食費に充てる。仕事への意欲と愛着が徐々に復活し、浪費癖が消えてゆく。誰もが自分の家を流刑地ではなく楽園と考えるようになる。同じ屋根の下にいながら半年も会わないこともある現代の夫婦とは違い、毎日顔を合わせ、それでも見飽きない。子どもの教育に気配りを怠らず、こまごまとした家事も行なう。

女性はほどほどで満足し、編み上げ靴や深靴を履いたり仰々しい調子で喋ったりといった愚かな栄誉に憧れはしない。サロンも開かなければ、いただいたごちそうの代金を余分な口上で支払うことに慣れている大食いの作家に騙されもしない。学問に滑稽なほど熱中することなく女性らしい仕事をするだろうし、家庭の厄介事の息抜きに針や糸巻を手に取ったからといって恥じることはない。

さて、他に何を言うべきか?各々が自分の身の丈に収まり、虚栄心の食べるものがなくなってしまえば、軽佻浮薄の天下は終わり、ふたたび理性が上に立つだろう。

(訳:加藤一輝)

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