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フジュレ・ド・モンブロン『修繕屋マルゴ 他二篇』訳者解題(text by 福井寧)

 2021年9月24日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第16回配本として、フジュレ・ド・モンブロン『修繕屋マルゴ 他二篇』を刊行いたします。フジュレ・ド・モンブロン(Fougeret de Monbron 1706–60)はフランスの作家。裕福な家に育ち、ヨーロッパを放浪して暮らしました。18世紀文人の主たる特徴とされる明るい社交性とは裏腹の不機嫌な「人間嫌い」として知られ、ディドロをして「心臓に毛が生えている」「二本足の虎」と言わしめた人物です。
 本書は、フジュレの名を世間に広めることとなったリベルタン小説『修繕屋マルゴ』、クレビヨン・フィスの小説『ソファー』のパロディー作品と目される、エロティックな妖精物語『深紅のソファー』、「世界市民」を自称しながら、どこにもなじむことのできないフジュレの精神が窺い知れる一種の紀行文学『コスモポリット(世界市民)』の3篇を収録しています。
 以下に公開するのは、〈ルリユール叢書〉の第一弾、ネルシア『フェリシア、私の愚行録』の翻訳者でもあります、福井寧さんによる「訳者解題」の一節です。

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フジュレ・ド・モンブロン『修繕屋マルゴ 他二篇』訳者解題(text by 福井寧)

小説と自伝的作品の間

『修繕屋マルゴ』はパリを舞台とした小説作品で、実在の人物の名前をもった人物が登場する。マルゴが活躍するのはフジュレが実際に住んでいた地区だ。町並みの描写はないけれども、フジュレが実際に足で知っていた町を描いているために、マルゴの語りから当時のパリが生き生きと浮かび上がってくる。フジュレ自身が忘れられた作家だが、この小説の魅力は他にも忘れられた作家の名前が現れるところにある。特に、作中に登場するモンテクレール作曲《ジェフテ》やラモー作曲《イポリットとアリシー》などのオペラの台本作者として知られる詩人ペルグラン師について語る一節は、この小説の他の部分のとぼけた調子とは違った切実さが感じられるもので、不遇な作家の弁護として優れたものである。ここではマルゴではなくて、フジュレ自身の語りが顔を出しているように感じられないだろうか。また、小説の結末で睡眠導入効果がある読み物としてマルゴが挙げるボワイエ・ダルジャン侯爵とムーイ騎士が『コスモポリット』でも言及され、いずれも凡庸な作家として切り捨てられているところに痛快なブラックユーモアがある。ボワイエ・ダルジャンもムーイも当時のフランスでは非常によく読まれたらしいが、現在では全く忘れ去られている。ボワイエ・ダルジャンはリベルタン小説『女哲学者テレーズ』の作者としてのみ名前を記憶されているが、この作品も本当に彼のものであるのかどうかは疑われている。

 我々は『コスモポリット』を自伝的作品として読み、『修繕屋マルゴ』を小説として読むが、当時の人間には『マルゴ』の方もほぼ実話のように読むことができたのではないだろうか。それほどこの小説には現実に起きた事件がちりばめられている。たとえば本書82頁で教会の倒壊事故が語られるが、実際にサン゠ニコラ゠デュ゠ルーヴル教会が1739年12月15日に倒壊し、そこで6人の司教座聖堂参事会員が犠牲になっている。マルゴのオペラ座デビューの日には「舞台裏で女性団員の一人が死に値する罪を犯しているところを見つかった」(91頁)と語られているけれども、40年にはマリー゠アントワネット・プティという団員がオペラ座を追われたことが大きなスキャンダルとなった。98頁ではオペラ《ジェフテ》のリハーサルが話題になっているが、《ジェフテ》は同じ40年に再演されている。よってマルゴがオペラ座に入ったのは、発表の10年前1740年のことだとわかるのである。

 この小説の他の実名については本編の訳註に記したので細かく書かないが、当時の読者にはまるで実話のように書かれた諷刺小説を楽しく読むことができただろうと想像できる。我々にはなかなか当時の読者の感覚を追体験することができないとはしても、小説『修繕屋マルゴ』と自伝的作品『コスモポリット』を同時に読むことによって、フィクションの主人公であるマルゴと、フジュレがバルセロナで出会う、実在した遊女を重ね合わせることができる。この女性が必ずしもマルゴのモデルということではないだろうが、フジュレがどのような気持ちでマルゴの人物像をつくりあげたのか、その創作の秘密が垣間見られるように思えるだろう。

 マルゴは通りの名前を実名で挙げているが、それらの通りの多くは現在のパリの地図と一致しない。ご存知の方も多いだろうが、19世紀後半の第二帝政期、オスマン計画でパリの町が抜本的に改造されたからである。そこで本書の巻頭に18世紀当時のパリの地図を掲載した(『深紅のソファー』『修繕屋マルゴ』要図)。これによって多少なりともマルゴの暮らしたパリのことが想像できるかと思う。また、『コスモポリット』でフジュレが訪れた町を記したヨーロッパの地図も載せたので(『コスモポリット(世界市民)』要図)、啓蒙の世紀の無頼漢のヨーロッパ放浪旅行に思いを馳せてほしい。

 おそらくこの時代、さまざまな国を旅するということは現代人から想像もつかないほどに困難なことだった。たとえ文人にとって旅行することが流行になっていたとしても、そこにはさまざまな制約があったと想像される。そうでもなければ、警察によってフジュレの罪状が「旅をしたこと」だとされることがありえないだろう。21世紀現在においてはヨーロッパ大国同士が戦争することが想像できないとはいえ、1742年以後の旅行について語る『コスモポリット』には40年から48年にわたったオーストリア継承戦争の影が色濃く、それ以前のスペイン継承戦争(1701‐14)やポーランド継承戦争(1733‐35)を想起させる記述もある。フジュレが本当のことを言っているのかどうかは知りようがないが、旅をしたことの方が、『修繕屋マルゴ』よりも罪状としては重要視されたという。

僕の誹謗文書とやらを精査した思慮深き警察総監は騙されたことに気づいたが、決して間違うことがない人であるがゆえにそれを認めることができず、僕を収容できるような理由をでっち上げなければならなかった。このずるくて意地悪な警官が何をしたか想像がつくだろうか。僕の旅こそが罪であると主張し、王宮にとって望ましからぬ人物であるということにしたのである。(219‐220頁)

 このフジュレの想像が当を得たものであるのかどうかについては判断できないが、それでも当時はフランスばかりでなく多くの国々において理由もなく諸国を放浪することがよく見られていなかったことは想像に難くない。しかもフジュレは成り上がりのブルジョワの息子であり、表面を取り繕うことができずに歯に衣着せぬものの言い方をする人間だ。このフジュレはベルリンにおいて宮廷批判をしたという嫌疑をかけられ、すぐに逃げ出してしまう。このとっさの行動を反省してフジュレはこう言う。

僕のような一人のつまらない人間がもし何か述べたからといって、大君主がそれを気にすることがありうるなど、思考能力がある人ならそんなことが当然だと考えることがあるだろうか。〔…〕この間違いを思い込んだまま死なずに済んだのは、事情に通じた、信用に値する人が誤りを正してくれたからだ。王は僕が引っかかった策略のことをほぼ聞いたことがなかったし、僕の存在すらも知らなかったというのだ。このように、君主に関して不当な言辞がささやかれるのはよくあることであり、君主の名において不正が行われているのに、実は君主自身はそれと全く関わっていないということがある。(200‐201頁)

 フジュレはこのようにこの嫌疑を軽視していて、君主当人についてはこの論考が当たっているのかもしれないが、社会はそのように考えなかった。18世紀においては現在のように情報網が発達していなかったが、その代わりに噂が現代からは想像できないような大きな影響力をもっていた。偽善を嫌い、自分がどのように見えるか、自分をどのように見せるかに無頓着なフジュレは、多くの国において望まれざる客になってしまい、モスクワでもベルリン滞在時と同様の問題を起こしてしまう。フジュレという奔放不羈な人間にとって、当時のヨーロッパは生きづらい世界だったようだ。

 フジュレは最初英国贔屓だったのだが、後に態度を変えて英国に対して激しい憎悪を燃やすようになる。とはいえ、「生まれつき英国人とだいたい似たような気質」(159頁)だと自ら言うフジュレの作品をいちばん歓迎したのは英国だったと言えるだろう。この『コスモポリット』と、1760年代以後に英国で旅行を題材にした作品が流行したことを関係づける評者もいる。たとえば英国の研究者アーサー・リットン・セルズは、18世紀の詩人オリヴァー・ゴールドスミスの書簡体作品『世界の市民』(60年)、長詩『旅人』(65年)にモンブロンの影響があると言い、さらにトバイアス・スモレット『フランス・イタリア紀行』(66年)、ローレンス・スターン『センチメンタル・ジャーニー』(68年)の題名を挙げている。この中で、ゴールドスミスの『世界の市民』はモンテスキューの『ペルシア人の手紙』を真似たもので、中国人旅行者の目から見た英国を描いたものだが、The Citizens of the World という題名は、確かに『コスモポリット(世界市民)』の原題、Le Cosmopolite ou Le Citoyen du monde を思わせるものである。

 19世紀になると、英国の代表的ロマン主義詩人、ロード・バイロンが記念碑的作品『チャイルド・ハロルドの巡礼』(1812‐18年)の銘句として、この『コスモポリット』の冒頭をフランス語原文のまま引用している。

L’univers est une espèce de livre dont on n’a lu que la première page, quand on n’a vu que son pays. J’en ai feuilleté un assez grand nombre que j’ai trouvées presque également mauvaises. Cet examen ne m’a point été infructueux. Je haïssais ma patrie. Toutes les impertinences des peuples divers parmi lesquels j’ai vécu m’ont réconcilié avec elle. Quand je n’aurais tiré d’autre bénéfice de mes voyages que celui-là, je n’en regretterais ni les frais ni les fatigues.
世界とは一種の書物である。自分の国しか知らない人は、その書物の最初の一ページしか読んでいない。僕はこの本のページをかなりの枚数めくってみたが、どれも似たり寄ったりのひどさだった。この検分は全く無駄ではなかった。僕は祖国を憎んでいた。さまざまな国で暮らしてみたが、どの国でも人々は愚かしく、祖国と折り合いをつけることになった。度重なる旅行から得たものがこれだけだったとしても、お金をかけて旅行してくたびれ果てたことを悔やむことはないだろう。(141頁)

 世界に対する居心地悪さを感じながら、倦怠のうちにヨーロッパをさまよい歩いたバイロンは、フジュレの言葉をまるで自分自身の言葉のように感じたのだろう。かくしてフジュレの放浪の遺産は半世紀後に英国で花開いたと言えるのかもしれない。

『修繕屋マルゴ』と『コスモポリット(世界市民)』がフジュレの最良の作品であり、その後の作品は精彩を欠くものとなった。特にフジュレがかつての自分を否定したことが残念だと感じられる。かつて自分が英国贔屓だったのに『英国かぶれ予防法』でヴォルテールらを批判し、まるでパリで放蕩に溺れていたことを忘れたかのように、『ガリアの首都、新しきバビロン』では道徳教師のようにパリの堕落を非難する。ここにはかつてのようなユーモアのかけらもなく、頑固で気難しい平凡な男が教訓を垂れているだけなのである。晩年のフジュレは自分がかつて忌み嫌った偽善者になっていた。これらは論争の書であり、おそらく『修繕屋マルゴ』や『コスモポリット』などの作品のせいで厄介事が増えたために、収拾をつけなければならなかったのだろうが、そのような経緯を差し引いて考えても、何のひらめきも見られない退屈な書物だと言わざるを得ない。ディドロはフジュレの死後に「その著作は不機嫌なばかりで才能はほぼどこにも見当たらないという代物だった」と書いたが、そこに奔放不羈な『コスモポリット』の作者を惜しむ気持ちはなかっただろうか。

『修繕屋マルゴ』が現実の要素をふんだんに取り入れた一種のレアリスム小説であるとすれば、『コスモポリット』は事実を語ると見せて、そこにかなりの虚構も忍び込んでいるだろう。ヴォルテールやディドロの注意を引いたと思われるこの作品は、フランス18世紀の文学作品としては分類が難しいと考えられてきたが、現代日本の読者には近代日本の私小説と興味深い類似をもったものとして読むことができるのではないだろうか。これは何ごとにも文句を言わずにいられず、自分だけが可愛い人間の肥大した自我が発現した小品だが、公益ばかりを重んじる21世紀においてこのような作品を再発見することには意味があるのではないかと思う。

 ルイ゠シャルル・フジュレ・ド・モンブロンは子孫を残さなかったが、兄のジャン゠ピエールはオルレアン地方の広大な土地を買い、その二人の息子は反革命運動に身を投じた。一人は亡命貴族軍に参加してブルターニュのキブロンで亡くなり、もう一人は人民の搾取者としてギロチン刑に処された。18世紀前半に成り上がったブルジョワの子息は、革命期には既得権益を死守しようとする側にいたのである。


【目次】

深紅のソファー
修繕屋マルゴ
コスモポリット(世界市民)

    註
    フジュレ・ド・モンブロン[1706–60]年譜
    訳者解題
【訳者紹介】
福井寧[ふくい・ひさし]
一九六七年、青森市生まれ。東京外国語大学外国語学部フランス語学科卒業。東京都立大学人文学部研究科仏文専攻博士課程単位取得中退。モンペリエ第三大学でDEA取得。全国通訳案内士(フランス語・英語)。訳書に、ネルシア『フェリシア、私の愚行録』(幻戯書房)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『修繕屋マルゴ 他二篇』をご覧ください。