バンジャマン・コンスタン「恐怖の効果について」

【原典:Benjamin Constant, Des effets de la terreur, 1797】
【総裁政府時代に書かれたバンジャマン・コンスタン初期三部作(「フランスの現政府の力について、またそれを支える必要について」「政治的反動について」「恐怖の効果について」)の最後にあたる短編の全訳です。ここでいう「恐怖 la terreur」とは、具体的にはフランス革命期の山岳派による恐怖政治(1793-94)のことですが、テロや圧政といった政治手段としての恐怖一般のことでもあり、また原文では全て小文字で書かれている(現在では「恐怖政治」を指す場合は「la Terreur」と書きます)ので、訳語は「恐怖」で統一しています。恐怖政治はフランス革命の一部なのか、それとも「逸脱 dérapage」なのかは、革命史を語るうえで今なお議論となっており、その口火を切った作品といえるでしょう。本文中の()は原文にあるもの、〔〕は訳註、太字は原文イタリックです】

市民の熱狂が悪を要求しようとも、堅実な魂から成る正義の者を揺さぶることはない
ホラティウス〔『カルミナ』III, 3, v. 1-4〕

いくつかの新聞でわたしに対する個人攻撃の風説があったので、やり返さねばと咄嗟に思った。しかし読んでみると、どうやら反論するまでもなく、前々から決めていたとおり、真理の探求に専心すべく世間のことは気にかけなくともよさそうである。

わたしの作品〔『政治的反動について』〕の新版を刊行するにあたり、できることなら、いま広まりつつあるひとつの主張に反論したい。その主張は、それじたい間違っているし、危険な影響を及ぼすように思われるが、学説にされようとしており、すでにいくつもの名前までつけられている、というのは、7年間の動乱で疲れきった者には安心を、7年間の苦難でささくれ立った者には復讐を、同時に約束しているからだ。

主張を要約すると以下のようになる。さまざまな部分が衝突しあっているようだが、矛盾は見た目だけだ(原註1)。
(原註1:『革命の原因と結果について』と題される冊子〔Adrien de Lezay-Marnézia, Des causes de la Révolution et de ses résultats,1797〕で展開される学説について、わたしが正確に取り出せていると思ってもらえるかは分からない。わたしの受け取ったとおりに、予断なく書いてみた。それに、この作品は、主張こそ正しくないように思われるけれども、優れた文才と思考力で書かれている。深い洞察と見事な展開を多く含んでる。作品の示すとおり、この著者はいかなる党派に与しようとも党派性から傑出した人物であり、危急存亡の秋にあって大胆かつ全面的に共和派についたことは、いくら称賛しても足りない)

「フランス共和国を設立した者たちは、自分が何を設立したのか知らなかった。彼らの多くは犯罪に耽り、共和国では最も煽動的な者が最も信用されると聞いていた。(『革命の原因と結果について』p. 65)共和国を設立するにあたり、彼らは恐怖を必要とした。国が滅びるか、さもなくば政府が残虐になるしかなかった(同書、p. 27)。共和国を強固にしたのは恐怖だった。恐怖は、国内では服従を、国外では規律を取り戻させた(同書、p.34)。恐怖は共和国軍から敵軍へと移った(同書、p.34)。恐怖は君主たちにさえ憑りつき、フランスはヨーロッパの半分と上々の条約を締結できた(同書、p.35)。恐怖の後で起こったというだけの成功でさえ、恐怖のもたらす印象による結果なのだ(同書、p.35)。恐怖は、新しい制度と対立したであろう慣例や習性を破壊した(同書、p.45)。恐怖に対して敵が用いた暴力的な手段に屈しないためには、やはり暴力的な手段が必要だった。敵を倒すには、より暴力的でなければならなかった(原註2)。恐怖によって強くなった今日の共和政は素晴らしい制度であり、受け入れねばならない。ローマもまた悪党によって設立され、そのローマこそ世界の支配者となった(同書、p.66)」
(原註2:同書、p.37。わたしが反論している作品には、恐怖はフランスにとって必要だとも、革命にとって必要だとさえ書かれておらず、ただ堕落した人民による革命、犯罪で人目を引く者が主人公となった革命においてのみ避けられなかったものと書かれている、と言う者もいる)

わたしは、この学説を提唱する者たちに対し、結論に異議を唱えるつもりはない、実際に起こったことと思われるからだ。明らかにある原理から生じたと思われる結果を、その原理の最も熱心な支持者が全く理解していない場合がしばしばあることは、人間の最も素朴な経験なり、思考の組み立てなりによって、分かるものだ。ある表現の意味合いや、途中の媒介概念や、同時に述べられた見解といった、学説の筋道の一部に僅かな違いがあると、一連の推論をもたらし、正反対の結論に至るおそれがある。著者が自分の主張から導いたわけでもないのに、著者の意見を無視して引き出した偽りの結論によって、醜いとか馬鹿げているとかいった汚名を著者に着せることほど、知性の進歩に反するものはない。著者の導き出した結論と比較すべく結論を敷衍する必要はあるが、敷衍が糾弾に堕するとしたら、あまりに罪深い不正のせいに他ならない。

したがって、いま示した学説の支持者が悪辣な意図を持っているとは全く思っていないことを、はじめにはっきりと宣言しておく。彼らの目的が、今なお共和国を嫌っている者と、かつて共和国を穢した者とを、共和国の創始者にとって不名誉な土台の上で妥結させることだとは思わない。ただ断言するが、彼らの学説による実際の結果は、目的ではなかった。結果によって、あらゆる犯罪が許され、原理だけが罰せられるらしい。〔ピエール・〕ヴェルニヨが追放され、〔ジャン=ポール・〕マラーが正当化されるという。共和国の設立に貢献せず、共和国の設立に貢献した名誉ある者たちを擁護せずともよかったらしい。共和国政府が十人委員会政府になっても嘲笑しないで済ませたという。革命の激動の中で、見通しを示すのではなく憤激をもたらし、あらゆる暴力、あらゆる残虐が、恐怖を実行する者の守る体制にとっては不可欠の援護として許されたら充分らしい。

わたしが反論を試みるのは、この学説だ。まず、革命における暴力を許したり忘れたりすべきという考えと混同してはならないことに気をつけよう、こうした考えのみが共和国内の平和を固められる。わたしがそれに反対していると非難される謂われはない。これまで流布されてきたのは、わたしに対する逆の非難である。ただ、この考えは人間にのみかかわることだ。わたしが対峙する学説は、原理にかかわっている。過去に目をつぶるのは得策に違いない。しかし、過ちや犯罪さえも過去のものとなったところで、学説はそうではない。公理に時代はない、常に適用しうる。いま存在し、将来を睨む。革命の混乱に惑わされた者たちを許さねばならないと論証するのは非常に有益な試みであり、それについてわたしは論敵の先を行っていた。けれども、錯乱そのものが有益かつ不可欠だったと主張し、同時期に起こった好事を全て錯乱のおかげとするのは、あらゆる理論のうちで最も有害である。

学説化され、学説という形で正当化された恐怖は、恐怖政治家の残忍で凶暴な暴力よりもはるかに恐ろしい、というのも、恐怖政治家は恐怖をもたらさずとも存分に生きられるが、この学説の存在するところならばどこでも同じ犯罪が繰り返されるだろうからだ。その原理が正しいものとして聖別されたら、永遠に危険であり続ける。最も賢い者を誤らせ、最も人間的な者を歪ませようとする。革命政府の設立は、最も穏やかに見える国民の只中から、われわれの見たような怪物を生み出すだろう。プレリアール22日法〔革命裁判所の権限を拡大し恐怖政治を強化するために制定された1794年の法律。この法律では革命裁判所の科す罰則は死刑しかなかった〕は、最も残忍でない民衆から死刑執行裁判官を生み出したという。専断も程度によっては、頭を逆向きにさせ、心を堕落させ、あらゆる愛情を変質させるのに充分となる。限度のない力を持った人間や組織は、力に酔いしれる。いかなる事情があろうと、無制限の力が容認されうるなどと考えてはならない、そんなものは実際には必要ないのだ。

もっとも、仮に恐怖の原理が不変であり、したがって常に批判され続けねばならないとしても、その信奉者は、人間である、つまり気まぐれであるから、影響を受け、引きずられ、抑制されうるだろう。ゆえに、人間に対しては寛容を、原理に対しては嫌悪を喚起せねばならない。いきなり正反対のことをするのは、どういった奇妙な逆転によってなのか? 狂信的で血気盛んな、しかし移り気で感情的で流されやすい人種を追いかけてみると、日々数を減らしており、今日ではその党派の人間が自らの名前を押しつけて貶めようとしている者たちによって災厄をもたらす力が打倒されて久しい。もとより破壊的である学説が称賛され、それに反対するとなると時が味方することさえ期待できない!すると、われわれは個々人を恨むしかないのか? どちら向きであれ新たな恐怖政治家、いま唯一われわれを脅かしている王党派の圧政を支持する者たちが権力を握るようになったら、有名な著者たちを引きながら、恐怖のよい結果について今まで積み重ねられてきた詭弁を並べ立てるだろう、その理論は先日まで最も激しい敵かのように見られていた者たちの著作に基づいたものだろう。

わたしは、共和政を救うのに恐怖は必要でなかったこと、共和政は恐怖にもかかわらず救われたということ、逆の原因のせいと考えられているほとんどの困難は恐怖によって生み出されたこと、恐怖が生み出さなかったものは公正で合法的な体制によって簡単かつ永続的な方法で克服されたであろうことを、証明しようと思う。要するに、恐怖は害しかもたらさず、今なお共和国を脅かしている危険の全てを現在の共和国に遺したのは恐怖なのだ。

恐怖が称賛されるとき(その称賛はしばしば恐怖がなければ革命もなかったという形をとるのでないか?(原註3))、言葉の濫用に陥っている。恐怖が、恐怖の脇に存在していたあらゆる施策と混同されている。ごく単純な理由だけで、最も専制的な政府にも最も平等な政府にも、合法的で抑圧的で強権的な共通部分があると考えられている、その部分はあらゆる政府の基礎だというのだ。
(原註3:「革命がもはや大衆の熱意に支えられておらず、しかし未だ大衆の倦怠にも支えられていないとき、中間状態での補強がなければ革命は力を失って挫折するだろう、この補強こそ恐怖である」(『革命の原因について』p. 28)

こうして、国境へ進軍させたのは恐怖であり、軍規を立て直し謀略家を震え上がらせ叛乱分子をことごとく倒したのは恐怖なのだとされた。

これらの主張はひとつも正しくない。確かに、それらを実行したのは恐怖を行使したのと同じ者たちである。しかし恐怖を使って行なったのではない。権力を振るうときにふたつの部門、すなわち統治部門と暴虐部門があったのだ。成功は一方に、破壊や犯罪は他方に帰さねばならない。

破壊を行ないながらも存続のために統治を行なっていたから恐怖と支配が共存したのだが、そのせいで、恐怖のためには支配が、支配のためには恐怖が、互いに必要なのだという誤解が生まれた。

恐怖が支配を助けたとか、暴虐部門への怯えが正当な部門への恭順を倍加させたとかいうのは、明白かつ共通認識となっていることだ。しかしそこから、もっと怯えさせる必要があるとか、統治機構に従わせるのに充分な畏怖を喚起する正当な手段がなかったとかいうことにはならない。

ある裁判官が無実の者と罪を犯した者の両方を同時に罰したら、あらゆる犯罪者は恐怖を抱くだろうが、それはあらゆる無実の者と等しくそうなっているのだ。しかし、犯罪者に恐怖を抱かせるには、犯罪者を罰すれば充分だろう。犯人だけが処罰されたとしても、犯罪者は同じように怯えるだろう。暴虐と正義を同時に見るとき、ふたつをまとめて怪物めいた複合体にしないよう気をつけねばならない。嘆かわしい混同に基づいて、手段に無関心な学説を作ってはならない。結果の全体を見境なく原因の全体に帰してはならず、行き当たりばったりで無遠慮に暴虐的なものを称えたり合法的なものを怖がったりしてはならない。

したがって、革命期の歴史のうち、恐怖に関することから支配に関することを、恐怖の大罪から支配の正当性を分離しよう。

支配(ここでは起源を問題にせず、ただ統治としてのあり方のみ考える)、その政府は、敵を押し戻すために市民を派兵する権利を持っていた。この権利はあらゆる政府が持っている。君主国の政府も共和国の政府も持っている。スイスの政府もロシアの政府も持っている。ある犯罪の法的な重大性は、その犯罪のもたらしうる結果に基づくから、前線に行くのを拒んだり、兵士が脱走や逃亡したりすると、政府は最も重い罰を科す権利さえ持っていた。ただ、これは恐怖がしたことではない。恐怖は〔ルイ・アントワーヌ・ド・〕サン=ジュストや〔フィリップ=フランソワ=ジョゼフ・〕ル・バの一派によって統率のとれた勇敢な軍隊を荒廃させた。恐怖はあらゆる形式を廃し、軍隊における作法まで撤廃する。恐怖は自らの手先に限度なしの力を附与する。恐怖は個々人の運命を気まぐれに任せ、戦争の運命を狂乱に任せた。その恐ろしさは共和国にとって何ら有益でなかった。サン=ジュストがライン方面軍で幾千もの罪なき者を殺さなかったら、軍はうまく戦えなかっただろうか〔混乱していたライン方面軍を立て直すため、サン=ジュストとル・バは士官たちの粛清を行なった〕? われわれの勝利の原因を貶めないようにしよう、アルコールとリヴォリの勝利は地方総督〔ライン方面軍を指揮したサン=ジュストを指す〕の激情や絶えざる死刑のおかげではないことを忘れまい。

政府は、勝ったか敗けたかにかかわらず、将軍の行ないを厳しく監視し、疑惑どおりの者がいたら容赦なく裁く権利を持っていた。この固い正義は裏切者を抑えていただろう。ただ、これは恐怖がしたことではない。恐怖は疑わしい者を処刑台に送り、非のない兵士の血を流させた。そうした殺人は全く必要でなかった、殺す必要があるかは審理せねばならないのだ。殺人は止まったが、以後も共和国の将軍は無気力や反逆の罪を犯していない。

政府は、共和国に対して陰謀を企てた者を監視し、起訴し、法廷に出頭させる権利を持っていた。ただ、恐怖は訴訟も手続もなしに法廷を作り、裁判なしに毎日60人も殺した。こうした残虐に何の実利もなかったわけではない、死は取捨選択せず誰もが震えあがった、といわれている(原註4)。そう、確かに皆が震えていた。しかし、すべての犯罪者が震えれば充分だったのであり、80歳の老人や15歳の少女、被告人質問も受けていない被疑者を、謀略家を脅かすためといって罰する必要はなかった。
(原註4:「死が取捨選択しないのを見て、誰もが身を案じて震えあがった。死が素早く襲いかかるのを見て、恐怖は倍増した。もし裁判手続が緩慢だったら、恐怖は希望によって和らげられただろう。もし死がそれに値すべき者だけを脅かしていたら、死はそうした者にとってだけ抑止力となっただろう」(『革命の原因について』p. 33))

政府は、あらゆる市民に対して国家の要請に応えるよう呼びかける権利を持っており、法律が国家に市民を動かせる断固たる厳しさを附与した。ただ、恐怖は、専制的で貪欲な機関に、個々の犠牲の差配と生産を任せた。恐怖が極刑によって手に入れたのは、法律によって裁判で保証してもらうべきものだけだ。そして極刑は不正確かつ貪欲な手先を使わざるをえなかったので、恐怖による唯一の効果は、個々人にとっては最も悲惨だが共和国にとっては全く役に立たない犠牲だけだった。

政府は、喫緊の危機に際して市民が祖国を捨てることを禁ずる権利を持っていた。ただ、恐怖は、この罪を犯していない人間に濡れ衣を着せた。恐怖のせいで市民は逃げだし、逃げたために罰せられ、また誤った告発が増えたため抜けられない迷宮が後の政府に残された。犯罪記録は疑わしくなり、計略は謀りやすくなり、例外を設けざるを得なくなり、同情が広まった。無実の者に法律を向けたときの常として、このときも恐怖が真犯人に脱法手段を提供することとなった。

政府は、煽動的な司祭を罰する権利を持っていた。しかし恐怖は、すべての司祭を追放し、殺害し、全滅させようとした。恐怖は階級制を再設定したが、それはある階級を根絶やしにするためだった。正義は狂信を無力化するが、恐怖は、狂信を追撃し、不正で残虐な手段によって狂信と戦いながら、ある者にとって神聖に、大多数の者にとって立派に、そして皆にとってほとんど興味ぶかく見えるものを狂信から作り上げた。

恐怖の効果について、これ以上は検討しない。わたしは、恐怖は何ら益をもたらさなかったと結論づける。恐怖の脇には、あらゆる政府にとって必要なものが存在したが、それは恐怖なしで存在すべきだったのであり、恐怖と混ざったために腐敗し有害となった。

恐怖の効果として誤解されているのは、共和国民の献身が恐怖のおかげとされていることだ。暴君が祖国を荒廃させているとき、共和国民は祖国を外国人から懸命に守った。暗殺を恐れながらも、共和国民は勝利へと邁進し続けた。

さらに誤解されているのは、まさしく恐怖によって生み出された困難が、恐怖が打倒したといって称賛されていることだ。恐怖について称えられていることは、恐怖に対して非難すべきことなのだ。

確かに、犯罪は犯罪を必要とする。恐怖が人心を煽動し、誰もが蜂起へと突き進んだので、皆を抑圧するために恐怖が必要だった。しかし恐怖がなければ蜂起も存在しなかっただろうし、大危機を回避するために恐ろしい方策をとる必要もなかっただろう。

恐怖は、リヨンの叛乱、諸県の蜂起(原註5)、ヴァンデの戦争を引き起こした。そして、リヨンを屈服させ、諸県の連合を解消させ、ヴァンデを鎮圧するために、恐怖が必要となった。
(原註5:わたしがリヨンの叛乱やヴァンデの戦争と諸県の蜂起を混同していると思わないでほしい。リヨンの動乱をすぐに掌握したのは王党派である〔急進的な革命を求める無産市民が王党派に処刑された〕。ヴァンデの民衆の動機は常に狂信だった〔宗教弾圧に対する民衆の反発が原因となった〕。逆に、諸県連合は共和国の敵と内通して自らを貶めることなどなかった〔パリから単一不可分の共和国を押しつけられることに反発し、各地方による連邦制を目指して諸県の蜂起となった〕。犯罪に対する美徳の、悪党に対する秩序の友たちの試みは、起源から純粋であり、失敗に終わるまで純粋なままだった。逆境や、死が避けられないと予感されたときでさえ、、祖国と自由のためを思うと、この蜂起の指導者たちは危険な手段をとれず、ジロンド派とか連邦主義者といった名前で知られる者たちの犠牲は、フランスが公安委員会の専制で被った数々の犠牲のうちで最も大きいものだろう。世代全体が呑みこまれた。この世代は、若く、強く、初々しく、見識があり、熱狂的ではあるが、古典古代の研究、哲学の原理、ヴォルテールやルソーの著作によって涵養され、才能と自由な思考と勇敢さを統合できるはずだったのであり、ゆく世代にも来る世代にも再び見つけることはほとんど期待できない。今日われわれは幼いままの老人と育ちの悪い子どもの狭間にいる)

しかし恐怖がなければ、リヨンは叛乱を起こさず、諸県は団結せず、ヴァンデはルイ17世を宣言しなかっただろう〔ルイ17世が即位することはなかったが、王党派はルイ16世の処刑後の国王と看做していた〕。

いま述べた譲歩すら正しくない。恐怖はヴァンデを荒廃させた。正義がヴァンデを平定したのは恐怖の後になってからだった。

「恐怖のもうひとつの効果は、古いしきたりを破壊し、しきたりと同じくらいの力を新しい習慣に与えたことだ。18ヶ月間の恐怖は、数世紀来の慣習を民衆から奪い、数世紀かかってようやく確立できたであろう慣習を与えるのに充分だった。恐怖の荒々しさは民衆を刷新した」といわれている(『革命の原因について』p. 44)。

これほど明らかな間違いはない。恐怖は共和政にかかわること全てに恐ろしい記憶を結びつけた。恐怖は道徳の概念を、最も子どもじみた行ないや君主政の最も軽薄な形式に混ぜこんだ。

公共精神の衰退、ことごとく自由の原理に反抗する狂信、あらゆる共和主義者や最も賢明で清廉な者にまで蔓延する堕落は、恐怖のせいなのだ。共和政の敵は、恐怖の引き起こした反動を巧みに支配した。コンドルセの魂を侮辱し、シェイエスを暗殺するために使われたのは、ロベスピエールの記憶だ〔1797年にシェイエスの暗殺未遂事件があった〕。無力で苛立った者たちに1789年の光を捨てさせたのは、1794年の熱狂だ。

「恐怖の専制が、自由な憲法への道を用意することとなり、恐怖の専制が先になければ自由な憲法が制定されることもなかったに違いない」ともいわれている(同書、p. 44)。

やはりこれほど明らかな間違いはない。恐怖は大衆に、どのような束縛であろうと耐えるよう備えさせた。しかし恐怖は大衆を無関心にさせたのであって、それは自由にはふさわしくないだろう。恐怖は頭を押さえつけ、知性を劣化させ、心を萎れさせた。

恐怖は、世を支配している間は無政府主義者を助け、今では恐怖の記憶が専制主義者を助けている。

恐怖は大衆に、最も忌まわしい行為をさせるために最も神聖な名前が叫ばれることに慣れさせた。恐怖はあらゆる概念を混乱させ、知性を独裁に向かわせ、形式の軽視を引き起こし、あらゆる方向に暴力と大罪を企てた。恐怖は、かつて高潔な者が熱情をもって抱き、平凡な者も真似して後に続いていたような考え全てに非難を浴びせた、そう庶民には見えた。

恐怖は、政府の最も公正な行為すべてに対して間違いなく効く武器を、悪意に提供した。偽りの有害な類似性によって、最も正当な厳罰を卑しめた。最も罪深い者が、権力に抗議するとき恐怖について非難する、それによってあらゆる情念を呼び起こし、あらゆる記憶を自らに有利な武器として使えるのだ。

自由を標榜する革命は皆、そのまさしく途上にあるときに恐怖を必要とする、という原理が是認されるようになったら、恐怖による害は取り返しのつかないものとなるだろう。

そうした考えは、フランス人に犠牲を払って獲得した自由を恥ずかしく思わせ、まだ自由でない国々に気力を失わせ、新たに自由になった民衆に悪影響を与えるだろう。自由を固めるには犯罪や残虐が必要だと信じさせるだろう。フランスが拒絶し、共和国を愛する者たちが真っ先に憎んだ悪党どもは、そうしたまことしやかな論理によって、まだ新参であるわれわれの隣国人たちを惑わせ、われわれの勝利をわれわれが受けた攻撃の成果として描き、恐怖はあらゆる革命にとって不可欠な一局面であり必要な補強なのだといって勧めるだろう。

自由のために、この不当で腐食性の非難を晴らすのは、嬉しいことだ。恐怖は自由の必然的な帰結でも、革命に必要な補強でもなかった。恐怖は、内部の敵の裏切り、外部の敵の結託、少数の悪党の野心、多くの愚か者たちの錯乱の結果だった。無分別が恐怖の口実にした敵、熱狂が恐怖のために使った手先、恐怖を操ろうとした主導者、そのすべてを恐怖は呑みこんだ。共和派〔ここではジロンド派のこと〕は犠牲者でしかなかった。彼らは恐怖が始まるのを見るやいなや恐怖と戦った。差し迫った用事、自分のための休息、運命、生命といった、自分のために集めるべきもの全てをつぎこんで共和派を助けた。理不尽な恨み、臆病な利己心、彼の暗殺者によってさえ、征服者や暗殺者に復讐されたいというおかしな願望が、この結集を妨げた。共和派は見捨てられて壊滅した。しかし敗北は共和派を正当化した。共和派の死は、卑劣な中傷者や、ロベスピエールにとって最大の敵を彼の共犯者と考え、社会秩序のために犠牲となった者を社会秩序の破壊者と考えるような苛立った者たちに対する反論となった。演説を読み返してみよ、そこで共和派は法の裏づけとしてあなたがたを引き合いに出している。不平等で勇気ある闘いを思い返してみよ、共和派は孤立無援で、何の庇護もなく、あなたがたは周りでただ動かず見ていただけで、今では糾弾している。

共和派の敗北から恐怖が始まり、共和派の墓の上に腰を据えた。あなたがたが共和派を時代の彼方へ追いやろうとしても無駄だ。個々の混乱や、恐ろしいけれども一時的な、とはいえ非合法な災難が、恐怖を構成するのではない。恐怖が存在するのは、犯罪が統治の手段となるときであって、犯罪が政府の敵であるときではなく、政府が犯罪を命じるときであって、犯罪と戦うときではなく、政府が悪党の怒りを組織化するときであって、善人の支援を求めるときではない(原註6)。
(原註6:この重要な違いについては、才能と勇気と自由への愛に満ちた若い作家である市民ルリエットがこのたび出版した興味深い作品〔ジャン=ジャック・ルリエット『フランスの亡命貴族について』Jean-Jacques Leuliette, Des émigrés français, 1797〕のp. 15以降を参照のこと)

恐怖は、最初の共和派が敗北し、逃亡や投獄や一派追放となったあとで、フランスに定着した。

したがって、共和国と恐怖を混同してはならず、共和派とその処刑人を混同してはならない。何より、犯罪を称賛したり美徳を嘲笑したりしてはならない。最終的には共和国となりたいのだから、共和国の創始者を貶めたり、共和国の擁護者を追放したりしてはならない。

あなたがたは共和政ローマを引き合いに出す。しかし事実を誤解している。王政ローマは悪党によって設立されたが、王政ローマはイタリアの四分の一も治めていない。共和政ローマは最も厳格かつ高潔な者たちによって設立された(原註7)。もちろん、タルクィニウス〔・スペルブス、王政ローマ最後の王〕追放後、〔ルキウス・〕ユニウス・ブルトゥス〔共和政ローマの設立者、初代執政官〕の記憶を穢そうとしたローマ市民などひとりもいなかっただろう(原註8)。
(原註7:ティトゥス・リウィウス〔帝政ローマの初代皇帝アウグストゥスのもとで『ローマ建国史』を著した歴史家〕が、タルクィニウス追放の時代に至って指摘しているのは、ローマは建国時こそ共和政でなかったが、わずか240年後、規律のないごろつきであり自由を享受できるような者でなかった初期のローマ人から、素行が洗練され感受性が豊かで規範が道徳的な世代へと替わったのは、神々の庇護の偉大な証でありローマにとって大いなる幸運である、ということだ)
(原註8:不正確な表現を許してほしいのだが、政治体制のうちには、いうなれば教理のように思われる、そのようなものと似た部分、政治体制を固めるために尊敬すべきものとして民衆に提示されねばならない部分がある。体制の起源となった出来事や人物がそうだ。それらに憎悪を投げつければ、必然的に体制にも降りかかる。時が経って、事実から憎しみが、記憶や私情から恨みが切り離されれば、ある人物に対する悪評が他の人物に降りかかることはないだろう。そうなったら、共和派の記憶を侮辱することは単に不当であるだけだろう。しかし今日、同時代の革命の只中にあって、革命の指導者を貶めるのは、革命そのものを貶めるのと同じことだ。共和国の創始者を憎みつつ共和国を尊重するのは、一般人にとってあまりに抽象的な挙動だ。少なくとも、この共和国は、共和国のために、現政権が自立できるようになるまで個々人が現政権のもとに結集し、現政権の設立者たちに対して向けられがちな偏見を退けるような習慣や関心を持たねばならない。共和国が悪党によって設立され犯罪によって強化されたと民衆に見られているようでは、民衆が王政を求める衝動をはねのけることなどありえない。コンドルセやヴェルニヨを中傷し、8月10日〔1792年8月10日、民衆がテュイルリー宮殿を襲撃して国王一家を捕え、王権を停止した〕を暴虐として描き、5月31日とそれに続く惨禍〔1793年5月31日、無産市民が国民公会を包囲した。ここからジロンド派の追放と山岳派の独裁による恐怖政治が始まる〕を君主政転覆の必然的な結果として描くことほど確実な反革命の手法を、わたしはほかに知らない)

かつて自由を愛していたが今日では迷っている者、斟酌やしがらみや記憶や不安から慎重になっている者、あなたがたは皆、自身の情況を見誤っている。ある種の傲慢のせいで盲目になっている。あなたがたは、かつて募らせていた、今もあなたがたを脅かしている退行衝動を隠し持っている。その衝動をいっそうかきたてることで和らげられると思っている。共和派はあなたがたに正義を要求しているだけなのに、あなたがたは貴族を誉めそやすことで無力化できると思っている。あなたがたを必要としているにもかかわらず非難し侮辱してくる者をちやほやし、あなたがたに不信感を示すものの不安を払拭してやることもできる者を拒絶する(原註9)。
(原註9:ある筆の立つ有名な作家いわく「党派の戦いにおいて、打ち負かされた党は必ず、あれこれを譲る羽目になった勝者に復讐する」(『情熱の影響について』〔スタール夫人 Germaine de Staël, De l'influence des passions, 1796〕p. 225))

貴族はあなたがたとは信条が異なるのであり、あなたがたに与するとしたら個人的な憎しみによってのみである。貴族はあなたがたが破壊したいものを破壊するのを助けるが、あなたが保持したいものも破壊するだろう。

共和派があなたがたから遠ざけられているのは、貴族をあなたがたに接近させている個人的な憎しみによってである。しかし、あなたがたの意図があなたがたの言うとおりであるとすれば(そう信じたくない者がいるだろうか?)、共和派は利害も信条もあなたがたとともにある。共和派はあなたがたの破壊を止めさせ、保全を助けたいのだ。

あなたがたは貴族にとっては犯罪者だが、共和派にとっては胡乱な者にすぎない。貴族はせいぜいあなたがたの奉仕を認めるだけで、あなたがたの落ち度を忘れることはない。あなたがたが貴族の忌み嫌う革命を始めたことは、どうやっても消せない。貴族があなたがたのせいにしている悪のごく一部さえ埋め合わせることはできず、自由のために行なったことを無に帰したところで、無秩序を利するために行なったといって貴族があなたがたを非難していることを消せはしない。

あなたがたの意図を信用できたら、共和派はあなたがたを有益で立派な友人として感謝をもって迎えるだろう。あなたがたが自由のために行なったことはすべて共和派の目には功績として映っている。

貴族はあなたがたの行なったことを非難する。あなたがたは行なったことを否認したり消したりはできない。共和派が疑っているのはあなたがたの意図だけであり、あなたがたは非難されるような意図など持っていなかったか既に捨てたことを簡単に証明できる。

貴族とあなたがたの間には許しが必要だが、共和派とあなたがたの間に必要なのは信頼だけだ。

信頼を築くのは難しいとか、共和派は疑り深く排他的で強情だとか言ってはならない。真理は強力であり、わたしはまさしくあなたがたに呼びかける。あなたがたは、まだ自分が行なっていない、真理に値しうる行動に気づかないのか?

しかし見誤ってはならない、それは制度への愛着と人間への憎しみを述べ立てることではない。何であれ共和政を脅かすものを保護することではない、自由によって与えられた力を自由に対して使うことではない。反革命的な作家を陰に陽に称賛することではない。それは2年間、専制に苦しめられ、闘い、打倒し、専制が瓦解してからは自由のために力を尽くした者たちに対して浴びせられる中傷を煽ることではない。あなたがたの誠実さを証明するのは、そのようにしてではない。制度の創始者を糾弾したり侮辱したりするのは、その制度が好きでないときだ。

ともに共和国の創設者を称えよ(原註10)。専制の犠牲者たちの墓を穢してはならない。公安委員会の苛烈さを逃れた者たち、恐るべき支配を打ち破った者たち、激動の最中にあって冷静に着想され起草された憲法、1791年憲法の百倍も思慮深い憲法、パリから30里のところまで外国人が迫っていながらウィーンから30里のところで講和に至った憲法をあなたがたに与えた者たちを正しく評価せよ〔1795年憲法に基づく総裁政府の時代、ナポレオン率いるイタリア方面軍の快勝により1797年4月18日にレオベーンでオーストリアと仮講和したことを指す〕。
(原註10:共和国は〔ジャン=マリー・〕コロー・デルボワ〔恐怖政治をさらに推し進めたい強硬派としてテルミドール9日のクーデターに協力し、ロベスピエールを失脚させた。テルミドール反動でギアナに流刑され客死〕の企てによるものと言えるだろうか? くだらない屁理屈だ。共和国の創始者として知られているのは、はじめて共和政という考えをフランスに広め、こうした政体の形を求めると1791年に大声で言明し、立法議会の開かれている間じゅう王政の腹黒い慣性に抗って君主政憲法を覆し自由を救った人物である。コロー・デルボワやロベスピエールの暗殺者を共和国の創始者と考えるのは、7月14日の蜂起〔1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃のこと。フレセルはパリ市長、ド・ローネーはバスティーユ牢獄の守備隊長〕を〔ジャック・ド・〕フレセルと〔ベルナール・ルネ・ジュルダン・〕ド・ローネーを殺した者たちに帰すのと同じように馬鹿げている。勝利した軍隊の後に続いて略奪を働く者は、参謀の配下にはない。もし偶然、その盗賊が上手いこと将軍を暗殺し、そののち残虐の限りを尽くしたとして、盗賊は勝利を簒奪して貶めたといえるだろうが、勝利を収めたとはいえない。共和国の設立に結びつけられるべきはヴェルニオーとコンドルセの名前である。知性にとって重要であり、勇気によって輝き、不幸によって聖別された彼らの名前を尊重しない者は、永遠に軽蔑される)

そのようにしてあなたがたは貴族の望みを打ち砕くのだ、貴族はあなたがたの恨みにつけこみ、憎しみを囃したて、あなたがたの束の間の人気を使って共和派やあなたがたを攻撃する、というより、あなたがたの人気はすでに消えかけており、僅かな残りを守るには努力が必要だ。

そのようにしてあなたがたは四方八方から迫りくる反革命の奔流を堰きとめるのだ。そのようにしてあなたがたは、壊すことしか知らず、自由のためといって自国を危機に陥らせ、さらに治安のためといって別の危機に陥らせた叛徒と看做されるのではなく、共和派とともにフランスの救済者となり、共和派が共和国の設立者として称えられたからには、あなたがたは共和国を強化したことで称えられるだろう。

草月10日、第5年〔1797年5月29日〕

(訳:加藤一輝)

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