シャンフルーリ「日本の諷刺画」第3章:日本の漫画と主な題材の一般的性質
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滑稽、諷刺、揶揄、異形といったことにかかわる様々な分類をきちんと区切るのは難しい。パロディの領域では対立と交雑が常であり、それこそがヨーロッパにおいて「諷刺画」という言葉の意味を大いに拡げてきた。風俗の陽気な描写、下層階級の日常風景、庶民の憂さ晴らしによくある滑稽な揉め事といったものを、ある作家は諷刺画という分野を構成する数多くの小道具に進んで混ぜ込み、また別の作家は登場人物みなが愉快を旗印に進む楽しい前衛藝術とする。
既にヨーロッパですら記念碑や版画をめぐって混乱が起きているとしたら、東洋の絵画と対面した好事家の困惑はいかほどだろう!しばしば説明文はなく、また版画を埋め尽くす文字を訳したものは意味不明で、真逆の解釈を助長してしまう。
したがって、こうした題材については慎重さが必要であり、断言を控え、註解を押しつけるのではなく提案とすべきだ。というのは、あとになって研究が進み、苦労して考えた学説が変更されたり、権威もろとも粉々に覆されてしまったりしたときは、自ら退いて場所を譲るというのが、識者の真の務めではないか?学問とは不断の変化なのだ。
わたしが日本について知っていることは少ないが、それを30年かけて学んできた。30年かけて資料を集めたのだ。当時から自分の調べたことを公開してこなかったのは、様々な研究がわたしをあちこちへ呼んでいたためである。研究によって何らかの方法を会得できたと思いたい。それに、歳を重ねたことで、若さゆえの強引な断定に代わって慎重な懐疑心を持つようにもなった。
蒐集した図版を東洋的おかしさの解明という見地から改めて見渡し、日本の諷刺画を辿る道標として、奇想や悪夢や幻想を第一に置こう。それらは専ら空想的な絵画に属するように見え、人物像の誇張、独特の仕草、大仰な手足、身体の動作は、面白いというよりは面食らってしまうかもしれないが、喜劇を描こうという画家に材料を与えてくれる。
いずれ識者があらゆる民族の仮面について比較史を試みるだろう。日本人は仮面の類型を大いに増やすことだろう。そこに刻まれた百面相は、子どもの心を持ち続けた民族にとっては親しみのあるもので、わが国の優れた「舞台化粧」にもない様々な方法で表情を変えて楽しませてくれる。
男女ともリンパの過剰〔四体液説に基づく気質のひとつ。多血質、リンパ質、胆汁質、黒胆汁質があり、リンパ質は穏やかで優しく太り気味とされる〕に日本人はこだわる。多くの画集に、痩骨窮骸と対照的な大兵肥満として、太った人物が描かれている。この肉づきの誇示は、極東の諷刺画家が好む題材のひとつとして、研究されるべきものだ。
狐や鼠や鼬やノーザンパイク〔欧米に広く棲息する川魚。日本のどの魚を指しているか不明〕や蛸は、そうした動物の武勲や仮装が目を惹くと、どこの国でも子どもを大いに喜ばせる。日本では、とりわけ伝説や寓話に登場する。それらについての短い概説を日本的おかしさの研究の余白に載せるのが妥当だろう。
こうした題材の多くは、もっと学問的な解説が必要である。わたしは文章よりも図版のほうが好きだから、探究というよりは概略を示した。絵は西洋と東洋を繋ぐ橋渡しであり、どんな民族にも分かる共通語ではないか?
(訳:加藤一輝/近藤 梓)
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