シャンフルーリ『諷刺画秘宝館』序文

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わたしがここに6巻目を公刊するシリーズは、当初の考えでは『古代の諷刺画の歴史』から『現代の諷刺画の歴史』まで一筋に進むものだった。だが最後は、未だ多くの秘密を残している謎めいた東洋をもって終えたい。とりわけ、これまで言われていなかったことを言うということが、とても扱いの難しい題材について書くということと同じくらい、わたしを駆り立てたのだ。

この研究の主役となる滑稽な登場人物の幾つかは、既に学識者や旅行者たちが取り上げている。しかし彼らは正面ではなく横から見ていた。西洋の倫理からすると背徳的な登場人物たちの武勲を引用しながら、目を伏せたり顔を覆ったりする者さえいた。

学問にとって、そのような臆病さをもって見るべきものは何もない。赤裸々な発想の肖像や、土着の素朴さを持った作品を説明するには、その奔放さがわれわれの礼儀作法からすれば不愉快に違いなくとも、一民族に対して提示されているがままに分析しなければならない。

18世紀にフランス人のためにアラビアの短編集を平易な言葉で訳した才人アントワーヌ・ガランは、今日だったら、その短編集の持つ過度の放埓を怖れずに逐語訳した『千夜一夜』を最近ロンドンで出版したというイギリスの学者陣の試みを、真っ先に称讃したであろう。確かに、ガランによって整えられたアラビアの短編集は、幾千もの子どもたちを魅了した。東洋の豊かな想像力をふんだんに放ち、永遠に脳裏に刻まれる劇的な事件の際立つ百もの場面から成る面白い英雄譚を、多くの心に残した。だが、知的渇望ゆえに惜しまれるのは、東洋の女の奸計や男を捕らえる張りつめた罠、その官能性を、原文どおりの仏訳で明らかにしてくれなかったことだ。

文学には様々な倫理がある。ラブレーの倫理もあればベルカンの倫理もある〔アルノー・ベルカンは18世紀の児童文学作家〕。わたしはラブレーの倫理のほうが好きだ。それに、批評界のジェロント〔喜劇における頑固な老人役〕たちがこの本に向けるであろう批判は、ほとんど気にならない。

「どうして?」

「それが何になる?」

「そうすることが必要なのか?」云々。

こうした定型句で立ち止まるのは格式ばった学者だけだ。

最良の応答は、不健全な意図なしに全てを言うこと、純粋な心と好奇の目で考えを述べることだ。

考古学者パチャウディ〔Paolo Maria Paciaudi〕は、ケリュス伯爵〔18世紀フランスの考古学者・古美術蒐集家〕にプリアポス〔大きな男根を特徴とする生殖の神〕の古い小像を送る際、こう書いている。「あなたはこれを節度をもって公刊されるでしょう」

そうした大衆表現の本源は、問題を探究している知性を、好きなようにさせてくれるのではないか?知られているごく僅かなことは確かに関連性を欠いているが、それを用いて、この種の研究が、東洋の過去の謎を見渡し、生殖の神々に対する深い信仰、大道藝人に拾い上げられ地口の冗談の種を提供する古風な信仰を発見するには至るまいと、誰が分かるだろうか。

わたしは少しずつ集めた覚書を形にしようとするまで15年間待った。年齢と思索によって、できる限り学術的であるよう努めた仕事が可能となったのだ。

ナポリの王立古代秘宝館の本を出版するために集まったイタリア考古学者たち〔具体的に何の本を指すか不明だが、古代イタリア美術を総覧する当時の8巻本『ヘルクラネウムとポンペイ』の最終巻が秘宝館を扱っているので、そのことか。Louis Barré et Henri Roux, Herculanum et Pompéi, tome 8 : Musée secret〕のように、わたしも、これまで刊行した年代順の本と同様、この本にも然るべき数の図版を入れねばならないと考えた。

このシリーズの他の巻と同じく、本書もまた碩学たちの善意に呼びかけるもので、あとから磨かれることだろう。これまでわたしは、拙書を改訂し、最新の研究成果を加えるよう促してくれる注意深い読者たちを得てきた。『古代の諷刺画の歴史』が3版を重ねて細心の修正を施され、膨れ上がるよりもむしろ引き締められたように。遺産の図版は増えたが、現代の発見によって無効となった部分は急いで取り除いたのだ。

わたしの友人である出版者エドゥアール・ダンテュ氏〔Édouard Dentu〕は、本の校正を好きなだけさせてくれた。根を詰めすぎたときには兄のガブリエル・ダンテュ氏〔Gabriel Dentu〕に助けていただいた、アンリ・エティエンヌ〔16世紀の古典学者・印刷業者〕が校閲者たちに頼んだような役割を20年以上も進んで果たしてくれたのだ。

オルレアンの画廊の倉庫の片隅で、われわれ、つまり出版者と著者と校閲者は、アントワープ旅行で見たプランタンの工房〔16世紀の大規模な印刷工房。19世紀まで現役だったが現在は博物館となっている〕の光景を思い起こさせる、完全に調和した密かな共同作業の生活を、実現することができたのだった。

シャンフルーリ

(訳:加藤一輝/近藤 梓)

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