シャンフルーリ「日本の諷刺画」第9章:秘画

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日本には、独創的な絵の画集、というより正確に言えば、長さは何mもあるが縦幅は狭い絵巻が存在する。そうした絵巻は、金の刺繍に飾られた絹地で装幀され、巻物と呼ばれており、様々な素描が連ねられ、それを日本人は卓上に広げ、実に特殊な情景パノラマの進展に応じて、様々な主題についてあれこれ言うのだ。

親切なことに、『気さくで優雅な中国』の著者ジュール・アレーヌ氏〔Jules Arène, La Chine familière et galante〕が、ヨーロッパでは滅多に見られない絵巻をふたつ見せてくれた〔鳥羽僧正の勝絵『陽物比べ』と『放屁合戦』〕。そこで扱われているいかがわしい主題は、文明人が普段は隠している行為にプリアポスやクレピトゥス〔古代ローマの屁の神とされるが、キリスト教による多神教の揶揄として言及されるのみで、本当に古代ローマで信仰されていたか不明〕が様々な賞を授与するような競技を思わせる、そうした行為が激しく炸裂して描かれているのだ。だから、ペトロニウスの言ったような破廉恥な誇示には、目を留めないのがよい。「その男の股には、ものすごくでっかい一物がぶら下がっていたので、実際その男のほうが男根にぶら下がった金玉のように思われたほどだった。やれやれ、難儀しそうな若者だ!あれは前日に始めて翌日に終える奴だろう」〔『サテュリコン』第92節、ラテン語のまま引用されている〕

今日の羞恥心なき自然主義の時代には、ラ・フォンテーヌが完成させた表現のような技巧がないならば、ラテン語を話すべきではないか?

かの地の人々は、ある鳥を偶像として崇めている
姿はとても美しいが
翼にしか羽毛がない。
(ラ・フォンテーヌ『ガルブ王の婚約者』)

ひとつ目の日本の画集について、これ以上は露わにしたくない。だが、ふたつ目については、同じ絵師によって描かれているため、ちょうど対になっており、鋭く研いだ筆先ならば、競い合っている人物たちの行為や仕草を慎重に説明できよう。

中世フランスで軽口同好会を作り、猥談を語り、健康を保つ最も大切な防腐剤は快楽だと考えて艶笑譚〔ゴロワズリ〕を愛好した、過去の博識な考古学者にしてクレピトゥス信仰の起源の探究者たち、あなたがたは極東の陽気さを同時代人たちに悪意なく知らしめようとする物書きを守ってくださる。入手困難な絵巻の略画を分析する際の慎重さ、絵巻の提示する美学的問題や人類学的詳細は、過度な嘲笑の感情が作家をこの研究に向かわせたのでないことを証明してくれるだろう。

こうした際どい絵画がフランスに輸出されることはほとんどない、日本人はその絵の愉快な主題に執心し、大切にしまって、友人になど見せず、おそらく家族にも隠しているからだ。

日本の絵師に独特の軽快さで簡潔に描かれた絵では、巧みな筆が、ゆったりとした墨の線によって、あらゆる人物の輪郭を捉えている。

絵を描いている日本人を見ることのできた者は、日本人が人物の略画を、複雑なものであっても、頭から始まって足に至る途切れない一筆の線から描き始めることを知っている。その書法は、飾り文字の威厳ある署名を色紙に添えるような書家のものにも匹敵し、熟練の歌手がルラード〔一音節の間に素早く歌われる装飾音〕の最中に止まらないのと同様、途中で筆を上げることはない。

日本の絵師に、題材の深い考察を求めてはならない、何かを描いている途中の修正もだ。この幸せな民族は、描線の悩みや手直し、削除、「後悔」といったことは、西洋人に任せているのだ。日本人の絵は頭よりも手によるところが大きい。それゆえ、あらゆる日本人は、研究者を歎息させる速描きの藝術家たちに属しているように見える。現代の身近な例を挙げれば、日本の二流絵師は、わが国で毎週ちょっと見かけた婦人の絵ばかり描いている新聞漫画家より下手なのではない。同じ単純な彩色、同じ想像力、同じ表現形式が、謂わば限りなく宛転しているのだ。

いま問題にしている絵巻には場面の進展があり、場面どうしの間には小休止の代わりに白紙部分が挟まれている。わたしは幾つかの場面しか分析しない、その資料にはうんざりする不愉快な反復もあるのだ。そうした題材については、あまり深入りしないほうがよいのではないか?

初めのほうの絵に描かれているのは裸の男4人で、胡椒と大蒜らしき赤と紫の実が混ぜこぜに盛られた大皿の周りに座っている。会食者のうち2人が真剣に実を集め、食べる他にすることのない動物のような熱心さである。

――日本人は猿だ、と、ある旅行者はわたしに、この民族の性質を理解させるため、幾らか表現を誇張して言った。

実際、その絵師を信じるならば、広げられた実への欲望に導かれるがままのことしか考えられない者は、人間よりも動物に近くなっている。ダーウィンなら、これらの版画を見て、猿は人間と密接に繋がっており、人間は猿の直接の子孫だと思わせられるほど近いことを確信しただろう。それほど近づけてしまったのは、おそらく劇から現実感を排して下品さを抑えるために登場人物たちを戯画として描いた絵師の落ち度である。生きものの序列の中間にある者が没頭する行為は、日本人の目には、いっそう珍妙に映るのだろう。

会食者たちが食べようとしているのは、これから行なう試合のための刺激物だ。大蒜と胡椒は、砲兵が大砲に込める弾薬筒に詰まった爆薬を思わせる、ただ違うのは、腹の中の隠れた働きによって生じるガスには雷管も火も必要ないことだ。

同じ巻物の別の絵は、前もって何か訓練を受けている戦士たちを描いている。大蒜と胡椒も鋼の胃壁には効かないので、消化管の下のほうの管にある空気を押し返して、お察しのような結果を導くためには、激しい努力、つまり腰の運動や不自然な姿勢、きつく結んだ口が必要なのだ。

日本の絵師は、そうした身悶えを描く達人である。身体のどこにでも、普通の姿に奇抜な様子を難なく加えることができる。風変わりな誇張に真実味を持たせる技法があり、また先に述べた簡潔な描線のおかげもあって、極端だが論理的な絵を描けるのだ。

絵巻の別の一団は、日本人を特徴づける滑稽で豊かな想像力の証拠となっている。勇敢な心を持ち、激しい合戦に備えている戦士たちの中に、努力の甲斐なく、攻撃道具の不足を認めざるを得ない者がいる。湿った道具を持ってきてしまった花火師のように、火矢はあっても火薬がないのだ。それでも、これから始まる合戦に参加しようと、戦士それぞれが備えておくべきガスを、傭兵を使って袋に満たさせた。もう胴乱が空ということはなくなった。

こうして勇敢な敵手は既に砲声の響く戦場へと赴く。裂け目を求める活発なガスの詰まった大切な革袋を携え、戦士は嗅覚を抑えるために手巾できつく鼻を覆っている。

この奇妙な出来事の始まりを告げる強烈な爆発音に、クレピトゥス神はどれほど満足するだろう!こちらでは浅黒い男が、より勇ましく戦うために手足をつき、敵に対して次々と砲弾を放ち、守勢側が楯にしている扉をひっくり返している。あちらでは十字砲火が交わされ、上級戦士たちの烏帽子を宙に飛ばしている。幾つかの武器は不発だ、臭い火薬で合戦は酷いものだ。ある戦士は努力に集中しすぎて、殺人的な松明が脇腹から恐怖の放物線を描いて漏れ出している。

古い革袋を破裂させ、哀れな人間たちの頭上に嵐を起こすアイオロスでも、こんな成果は上げられまい。竜巻は通り道にあるものを全てひっくり返し、家具や籠や箱や扇を空に舞い上げる。

この激しい合戦は、ホメロスやガルガンチュアの戦いを思わせる。こうした嵐の作品を分析するにはラブレーの著作が必要だろう。伝統あるヨーロッパにあって、ラブレーだけが、激しい爆発によって生み出される攻撃を書き記す能力を持っているだろう。

ただ、絵巻に次々と展開される絵が、最終的に、目を本当に満足させるというよりは唖然とさせるものであることは認める。ラブレーの卑猥な羅列を読むのに幾らか疲れを感じるとして、それは少なくとも偉大で剽軽な機智のための非常に奔放な言葉遊びである。ここで日本人は、糞尿嗜好の想像力を示そうとして、全く劣った種類の人物を用いるのだ。

これについては、古代の藝術に多少は親しんでいる知識人ならば進んで認めるであろう類比ができる。優雅なタナグラ人形の中に紛れ込まされる道化役の人物は、生まれつきの不具で、身体は痩せ細り、しばしば窪んだ胸や傴僂に悩まされる背中を持つ。そうした畸形は何でも、のちの宮廷の道化や侏儒と同じように、ギリシャ人やローマ人の宴会で喜ばれた。日本でもそうなのだろう。絵巻に次々と登場する役者たちは、庶民的な画集に描かれる人物のような整った身体ではなく、不釣合な頭、膨らんで垂れ下がった腹、ひょろ長い手足を見せている。そうした不格好な者たちは、好奇心から暫く眺められるものの、哀れで病的な印象を残す。

トリマルキオの饗宴〔『サテュリコン』に描かれる豪奢で頽廃的な宴会〕の道化たちを思わせるこの藝術を見ると、知的に素朴であるという下地がありながら、上流階級の日本人は快楽に食傷しているのではないかと考えてしまう。

この民族が試みている社会の刷新は、最も恵まれた国々には否応なく圧しかかる頽廃が確認されたから起こっているのではないか?


この稿を印刷にかけようとしたとき、わたしは実に庶民的な画集を見つけた、北斎のような絵は全く載っていない画集だ。その絵師は子どもの目を楽しませたいようだ。滑稽さが自由に駆け回り、誇張のために赤、青、緑の3つの原色を用いて、気難しくない性格の者を大いに楽しませる。

この画集のおどけた人々の中に、帯刀した裸の女らしき者が屁を放つと、居合わせた大柄な男が、その放出物の意味と臭いについて深く考え込む、という様子が描かれている。

――ほら、お前の分だ、と恥知らずな女は言っているようだ。

――おお!と被害者は考える。

この奇妙な小劇は、日本での女性の慎みについての考え方がヨーロッパとは別物であることを、はっきりと示している〔実際には、挿絵のとおり、左側の人物は男であるように思われる〕。

(訳:加藤一輝/近藤 梓)

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