ジョゼフ・ド・メーストル「『部屋をめぐる旅(サンクトペテルブルク版)』編者序文」

【原典:Joseph de Maistre, « Préface des éditeurs » dans Xavier de Maistre, Voyage autour de ma chambre, suivi du Lépreux de la cité d’Aoste】
【グザヴィエ・ド・メーストル『部屋をめぐる旅』は出版と同時に人気を博しましたが、グザヴィエがフランス文壇の作家でなかった、というよりそもそもフランス人でなくフランスにもいなかったため、海賊版が多く出回っていました。この文章は、それを見かねた兄のジョゼフ・ド・メーストルがサンクトペテルブルクで新版を刊行する際、編者の序文として附したものです。本文にもあるとおり著者グザヴィエの名は伏せられていますが、同じ著者の作品として『アオスタ市の癩病者』と合本になっています。なおサンクトペテルブルク版(1811)がGallicaにないため翻訳はパリ版(1817)を参照しました。()は原文にあるもの、〔〕は訳註、太字は原文イタリックによる強調です】

われわれは、ここに再版する興味深い発見や冒険を行なった人物よりも前に存在した旅行家たちの価値を、貶めるつもりはない。マゼラン、ドレーク、アンソン、クックといった方々〔いずれも世界周航を行なった〕は、疑いなく立派な人物である。ただ、もしわれわれの思い違いが過ぎるのでなければ、あえてこう言わねばならない、『部屋をめぐる旅』には先立つ全ての旅をはるかに上回る特別な価値があるのだ、と。名高い旅は、繰り返せるものだ。あざやかな点描で地球全図を見せてくれる。旅した勇敢な人物たちの足跡を、誰でも自由になぞることができる。『部屋をめぐる旅』は、そうではない。ただ一度きりの旅であり、誰も繰り返すことはできない。旅した場所じたい、もう存在しないのだ。少なくとも、もっとも大胆な旅人が、あれこれ面倒な不都合、あらん限りの彷徨に身を晒した末、かの旅の四方の境界を見つけるのがせいぜいといったところだ〔グザヴィエが『部屋をめぐる旅』を行なったトリノの部屋はイタリア戦役で破壊された〕。だが、境界しかない場所とは何なのか? 取り返しようもなく消え失せた室内、場所の数々と全体、内部の秩序、自然の産物、その知られざる場所でとくに好奇心を向けられることのなかったもの全てについて、それらを描く旅人を信じるしかない、さもなくば畢竟もはや何も分からないのだ。そこに疑いを挟もうとすれば、地誌にしても人間の身上話にしても、致命的な空隙、まさしくクレバスを残すだろう。

さいわい、この旅には真実の印がはっきりと刻まれているから、もっとも厄介な読者にさえ懐疑論の入りこむおそれはほぼない。われわれが周游者(そうでないわけがあろうか? 周航者といってもよかろう)のかきたてる興味に惑わされているのでないとすれば、その誠実さ率直さが一行一行を確かに信じさせるほど各行に輝いており、純真な読者ならば誰もが全幅かつ当然の信頼を寄せるのは、疑いないことのように思われる。

不見識な者が『部屋をめぐる旅』を空想の旅に分類しようとするのは、じつに嘆かわしいことだ。すべてのページが実在するもので輝いているひとつの作品にそのような判断を下すのは、よほど知性が錆びついているか、真実に対する感性と無縁であるに違いない。オーカステル夫人からロジーヌまで、この驚くべき旅の登場人物に架空の存在はひとりもいない。ここには、ただヨーロッパのみがそれを望んでいたときからすでにして、厳密な証明という重大な誓約が見て取れる。

旅人の道中において、形而上学というのはほとんど出てこない学問である。だが貴重な例外が『部屋をめぐる旅』であり、超越論的哲学の完全なる体系を見いだせる。分厚い書物を好まず、あまり読まないようなご夫人がたでも、精神批判について、故カント教授〔カントは1804年没であり、当時は亡くなったばかりだった〕が難解な論文によって理解したのと同じくらい、知ることができるだろう。

この作品の文体について褒めそやすつもりはないが、しかし大したものではある。ただ、われらが旅人はキャプテン・クックのごとく見事に書いたとだけ言えば、節度ある主張だと思ってもらえるだろう。

特異な身上ゆえ、これまで著者は自身の旅行記のいくつもの版について全く監修できないでいた。先行する版が多くの間違いによって毀損され、おそらく重大な影響を及ぼしているため、新版が必要となったのだが、今回もまたわれわれに託さざるを得なかった。

われわれはこの旅行記の著者を広く知ってもらいたいと強く願っているが、著者は名前を伏せるのがよいと考えているから、どれほど執拗に詮索されたとしても、われわれが公表を認めることはないし、その種の無遠慮はじつに不作法だと常々思っている。ただ、しかるべき人物の久しい懸念、『部屋をめぐる旅』の著者と間違われるのではないかという尤もな不安だけは、取り除いておこう。

1810年12月、フランス文学の長老ふたり、ポートランス氏〔Michel Portelance〕とオーギュスタン・ヒメネス氏〔Augustin-Louis de Ximénès〕のあいだに、「どちらのほうがパリの劇場で野次られたか」という激しい論争が起こった。ふたりは新聞紙上で白熱して栄誉を競い合った。

かつて見たことも読んだことも聞いたこともない
長所がこれほど同じ形をしていたのは

もっとも、われわれに関係ないこの問題の考察に立ち入るつもりはない。だが、ヒメネス氏があけすけな言葉で記した註には、充分な注意を向けねばならないだろう。「フランスの劇作家の最古参という称号(これは氏とポートランス氏とのあいだで争われた称号である)を得たのは、1794年とそれに続く数年間のうちに、パリで多くの作品、とくに『部屋をめぐる旅』を著わした別のヒメネスと区別するためである」(パリ新聞、1810年12月7日号〔le Journal de Paris, 7 décembre 1810, n. 341, p. 2419 (note)〕。このときヒメネス氏は85歳、対して相手はまだ77歳だった)

ヒメネス氏からすれば相当つまらない、当時の新聞で読んだような記憶がある程度の作家と無闇に混同されるのは、不愉快であったに違いない。けれども、すぐさま疑問に思われるのは、いくら現代が恐るべき堕落の時代だからといって、『部屋をめぐる旅』をオーギュスタン・ヒメネス氏と結びつけるような不義の人間がひとりでもいるだろうか、ということだ。

この旅行記がヒメネスという名前で刊行されていたのであれば、尊敬すべき文学者の懸念も理解できる。しかし以前の版の表紙にはXという文字とそれに続くいくつかの点しか読み取れないのだ〔正確にはM. le C. X******, O. A. S. D. S. M. S.と書かれている。これはM. le chevalier Xavier, Officier au service de Sa Majesté Sarde(グザヴィエ士爵、サルデーニャ国王陛下の士官)の頭文字を記したもの〕。それに、この頭文字が著者のものと思われるだろうことは認めるにせよ、どうしてXではじまる名前はすべてヒメネスに違いないと自分で思いこむに至ったのか説明するよう正式に要求したら、立派なフランスの劇作家の最古参を甚だ困らせることになるだろう。

ともかく、20年も不安にさせられてきたという不思議な文字について説明するときが来ようとも、われわれは著者の名前を言いはしない。その文字は、忘れがたい旅が行なわれ、勇気と自制と幸福によって終えられた、美しい場所にいれば満足だった。旅行記を読んでもらいたい親しい身内にいれば充分だった。ほかの場所では、何ら個別の意味を持たないのだ。

巷では「どうして『部屋をめぐる旅』の作者は他の作品を出さずにいられるのか?」という疑問がよく聞かれる。答えは簡潔、だが有無を言わさぬものだ。「ほかにすべきことがあるから」。書き散らし症は、現代の奇妙な病のひとつである。そうした作家は100冊も書くが、少なくとも60冊は忘れられ、後世には焼き捨てられさえする。書かないほうがましだったに違いない。偉大な時代の優れた作家は、きっちりステロ版で刷られ、上着のポケットに収まるというのに、現代の作家ときたら、しばしばひとりで箪笥ひとつを欲しがり、勝手に占拠するのだ。ひどく行き過ぎている。ならば、われわれは書くためにこの世にいるのか? 生計を立てねばならない、眠らねばならない、友人と会わねばならない、それに戦もせねばならない、どれほど文筆活動を妨げようとも立派な職業である。

しかしわれわれは思いがけず同じ作家の筆による小冊子を手に入れた。それは『アオスタ市の癩病者』だ、この新版で『部屋をめぐる旅』に続いてお読みいただける。

ふたつの草子は全く異質だが、それでも合本にすべきと考えたのは、同じ土壌から生まれたものだからだ。それに、互いに支え合うことで、いっそう立ち続けられることを願ってもいる。

知識を深めるために重要なことはまだいくらでもつけ足せるが、序文は常に作品よりも短くあるべきだというわれわれの考え(もっとよい考えがなければ)にしたがい、残りは消してしまった。

(訳:加藤一輝)

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