幸せだ、と思うことを選べばいい。

幸せだ、と思うことを選べばいい。

テレワークの会社貸与のPCなどを片付けながら、
ふと思った。
最近、よく思うんだよね。
この仕事、私じゃなくても良くね?と。

従来から担当している仕事で、
新しいシステムに切り替え作業をしているけど、
数は多いけど、繁忙期以外の売り上げは
ここ最近は低い。
しかも売り上げに対して手間がかかるのが、
より価格に対して見合ってない気がする。

つい、その仕事について、
会社から見られているだろうなぁ、
というポジション、価値、扱いと、
自分自身のそれとを混同して、
しかもネガティブに考えてしまいがち。

だから今、一生懸命にシステム切り替えのために
必要な項目をひろってデータ作ってるけど、
こんなに労力かけてやっても、
もしかしたら来年には、この仕事無くなってるかも。
とか、そういうネガティブなことを考えて
勝手に徒労感を味わいたくない、と
思ってしまっているのだった。

つまり私は、会社に役立っている人、価値のある人、
必要とされている人、と思われたいのかな。
このままこの仕事が無くなってしまったら、
一緒に私もポイされるんじゃないか。
もしくは、不要と思われているから、
この担当先をいつまでも持たされてるのでは、とか。

任されている、とは思えないのがネガティブ。
なぜネガ発想になるかと言うと、
上司たちから、この取引先に今後発展が無いようなら、
正直切っても良い、というような発言も聞いているからだ。
ただし、繁忙期の売上だけがすごいので、
その代わりの収入が無い限り、簡単には切らないとの
ことだったが。ほんとかな。

ネガティブに捉える要素だったら、いくらでも集められる、
ということに、ふと気づいた。
だったら、ポジティブに捉える要素も、
勝手にいくらでも集めたらいいじゃん、と。
どっちも、勝手な予測、妄想であって、
事実かどうかは分からないんだもの。

仕事の中身も、私でなくてもいいじゃん、という作業的なことと、
私が創意工夫しなきゃいけないことも、ある。
作業的な部分だけ眺めてると、私じゃなくとも、と
思ってしまうけど、それはそれで良いかも知れない。
なんでも、自分がやらないと、と思うのは勘違いだし傲慢。

幸せだ、と思うことを選り好みしていっても、
いいんじゃない?
明るい方をより多く見るようにしても、
別に損しなくない?
珠玉混合の人生の中の、キラキラ、ワクワク、
笑顔になる部分をより注目してひろっていく。
そのことを選べるのだ、私は。






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