『心中天網島』の虚実皮膜

篠田正浩監督による『心中天網島』(1969)は、妻子がありながら、ちまたで評判の女郎と契りを交わした若い男が、身内の制止を振り切り、女郎と偽りのない愛を確かめ合った果てに、壮絶な心中を遂げる、実験的な「浄瑠璃映画」。

映画は人形浄瑠璃のメイキング映像で始まる。人形の胴体から外された頭が置かれていたり、人形遣いがリハーサルをしていたりする間、監督自身が電話で脚本家と打ち合わせる会話の音声が数分にわたって続く。

『心中天網島』のタイトルが出て、いよいよ近松門左衛門による名作の映画版が始まったかと思うと、続々と黒子が出てきて、登場人物を側から見つめていたり、小道具を動かしたりするし、文を女郎の手から取ってカメラに向かって見せたりする。映し出される街の小道とその両脇の建物は、撮影スタジオのセットであることが明らか。冒頭では、主人公がその小道を歩いていくと、通行人の人々がぴたっと静止するという不思議な瞬間もある。また、女郎屋も主人公の家も、抽象的な模様の薄い壁に囲われたセットであることが分かる。男が妻子を顧みずに家を出て行く時には、彼がセットの薄い壁(家の壁)を叩き壊す。文字通り、舞台の「枠」が破壊される。終始一貫、カメラに映し出されるものが、舞台上の作り物、フィクションであることが、はっきりと示され続ける。

最初の疑問は、篠田監督が、なぜこのように人形、舞台、俳優、それを撮る映画カメラ、フィクションとリアリティが錯綜する実験的な作品を作ったかということだが、非商業的な芸術映画の公開を目的に1961年に設立された日本アートシアターギルド(ATG)による製作で、60年代後半に新進気鋭の若い監督がメガホンを取ったと聞けば、低予算の環境で大きなスケールの時代劇を撮ることが難しい中、実験的演出を試みたのだろうということも察せられる。

ドナルド・キーンによると、近松にとっての浄瑠璃のきわみは、「実と嘘との皮膜の間にあるもの」であり、それは写実的なものと様式化されたものの均衡に見出されるという。篠田の映画は、人形という様式を人間という写実に置き換えたことで、写実に寄った。その代わりに、黒子や舞台セットという「メイキング」の写実をむしろ前面に出すことでそれらを様式美として見せ、虚実皮膜の均衡をはかっているとも言える。

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