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自分のことをバカにしてくる人間を多数派として捉えるのか少数派として捉えるのか

誰もが生きてるうえでは人からバカにされたり見下されたりすることがあることだと思うのですが、このような態度をとられて悪い気がしないという方はほとんどいないのではないかと思うのですね。

まぁなかにはどれだけ人からバカにされても見下されてもそれほど腹が立たないという聖人のような方もいるかもしれないのですが、それでも大抵の方はやはり人からバカにされたり見下されたりすると腹が立つものなのではないかと思うのです。

そしてこのように人間である以上は誰もが人からバカにされたり見下されたりすると腹が立つことだと思うのですが、それでも私が思うに大切なのはこのように自分のことをバカにしてくるような人間や見下してくるような人間を『少数派』として捉えることなのではないかと思うのですね。

「少数派として捉える」とはどういうことなのかということなのですが、それは「まぁ世の中にはそんな人もいるよねぇ~」というふうに自分のことをバカにしてくる人間を『例外』として扱うということなのです。

逆にメンタルが弱く人からバカにされたり見下されたりすると過剰に落ち込んだり腹を立ててしまうという方は、このように自分のことをバカにしてくる人間を『多数派』として捉えてしまう傾向があるのではないかと思うのですね。

「多数派として捉える」とはどういうことなのかということなのですが、それは「やっぱり誰もが俺のことをバカにしてくるんだ!」というふうに自分のことをバカにしてくる人間を『みんな』として考えてしまうということなのです。

たった1人からバカにされたり見下されたりしただけでも、その人をこのように『多数派』として捉えるのか、それとも『少数派』として捉えるのかではそこに対する解釈がまったく異なったものになることだと思うのですが、やはり大事なのはこのような自分のことをバカにしてくる存在を『少数派』として捉えることなのではないかと思うのですね。

そして少数派として捉えることができるようになれば、例え他者からバカにされたり見下されたりしたとしても「まぁそんな人もいるよね」と軽く受け流すことができるようになるのではないかと思うのです^^

自分のことをバカにしてくる人間を多数派として捉えるのか少数派として捉えるのか

友情12

生きていれば誰であれ人からバカにされたり見下されたりすることがあるのではないかと思うのですが、このような態度をとられればほとんどの方はショックを受けて悲しんだり、腹を立てたりすることになるのではないかと思うのですね。

まぁ聖人と呼べる方以外は誰もがこのような態度をとられれば腹を立てることになることだと思うのですが、それでも私が思うに大切なのはこのような態度をとられた際にすぐに相手を『多数派』として考えてはいけないということなのではないかと思うのです。

私が思うに人からバカにされたり見下されたりした際に過剰にショックを受けたり腹を立てたりしてしまうという方の多くは、そのような方を『多数派』として捉える傾向があるのではないかと思うのですね。

例えばある高校生が学校のサッカー部に所属しているものの、サッカーが下手くそであることからある先輩から「お前って本当にサッカー下手くそだよな(笑)もうサッカー辞めちまえば?」というふうにバカにされたとしましょう。

まぁ自分が頑張っている分野でこのようにバカにされてしまえば誰であれショックを受けたり腹を立てたりしてしまうことだと思うのですが、この高校生は先輩からそのように言われた際に「やっぱり俺のようなサッカーが下手な人間は誰からもバカにされるんだ!」というふうにその先輩を『多数派』として捉えてしまったのですね。

要は目の前の先輩たった1人が自分のことをバカにしてきたにもかかわらず、この高校生は「やっぱりみんなそう思っているんだ!」「やっぱり誰もがサッカーが下手な自分のことをバカにしてくるんだ!」というふうに『みんな』『誰もが』というふうに捉えてしまっているのです。

そのためこの高校生はたった1人からバカにされたにもかかわらず「みんなが自分をバカにしている!」「誰もが自分のことを見下している!」というふうに考えてしまっているのですが、このように考えてしまうと当然ながら先輩のたった一言がかなり重くのしかかってくることになるということなのですね。

それではその一方で仮にこの高校生が先輩からの心無い一言を「まぁそんなことを言う人もいるよね!」というふうに軽く受け流したとすればどうなるでしょうか?

例えば先輩から「お前みたいなサッカーが下手くそなやつはもう辞めちまえば?」と言われ、その瞬間は「ムッ!」としたものの、その後すぐに「まぁそんなことを言う人もいるよね。あの先輩の言うことはムカつくけどほっとけばいいや!」というふうに考えることができれば、先ほどの捉え方とは感じ方が大きく違うということが分かるのではないでしょうか?

例え目の前の先輩からバカにされたとしても「まぁそんなことを言う人もいるでしょ!」というふうにその先輩を少数派として捉えることができれば、その先輩のことなどすぐにどうでもよくなってしまうのではないかと思うのですね。

そして私はこのように皆さんにも人からバカにされたり見下されたりした際には安易に「誰もがそう思っているんだ!」「みんなそう思っているんだ!」などというふうに捉えるのではなく、「そんなことを言うのはこの人だけでしょ!」というふうに思うように努めてほしいのです。

同じように目の前の人からバカにされたり見下されたりしても、このようにその人を『多数派』として捉えるのかそれとも『少数派』として捉えるのかによって、そこに対する解釈は大きく異なったものとなるのですね。

しかしそれではこれから「自分のことをバカにしてくる人間を少数派として捉えよう!」と思ったとしても、そう簡単にできることではないのではないかと思うのです。

これは口で言うのは非常に簡単なのですが、実行するのはそれほど簡単ではなく「やろう!」と思ってもそう簡単にはできないことなのではないかと思うのですね。

そのため次章では自分のことをバカにしてくる人間や見下してくる人間を少数派として捉えるためにはどうすればいいのか、その内容についてもう少し詳しく見ていきたいと思います^^

自分の価値観に沿っている人を『多数派』として考えてしまう

友情11

前章では自分のことをバカにしてくる人や見下してくる人を多数派として考えてはいけないということについて見ていったのですが、それでもなかには「そんなことできないよ!」というふうに思われる方もいるかもしれません。

やはり人からバカにされたり見下されたりした際に「誰もが自分のことをバカにしてくるんだ!」「誰もが自分のことを見下してくるんだ!」などというふうに思ってしまうという方はなかなかその考え方を改善することができないかもしれないのですね。

そのためここからはどうすれば自分のことをバカにしてくる人や見下してくる人を少数派として捉えることができるのかということについて見ていきたいと思うのですが、まず皆さんに分かってほしいのは我々人間は自分の価値観に沿う人間を『多数派』として考えてしまう傾向があるということなのです。

これは以前から当ブログでは何度も主張しているのですが、我々人間は他者の気持ちが本当の意味で分かることはなく他者の気持ちは「想像する」ことしかできないのですね。

これは誰でも同じであり、例えば相手が親であろうとも兄弟であろうとも配偶者、恋人、親友、祖父母などどれだけ親しい存在であるとしても我々人間は決して他者の気持ちが本当の意味で分かることはなく、想像することしかできないのです。

そのような経緯から考えるに我々人間は誰もが他者の気持ちを想像しながら生きているということになるのですが、これは皆さんも容易に理解してくれるのではないでしょうか?

このようなことについて改めて考えてみたことがあるという方はそれほど多くないかもしれないのですが、やはり我々人間は人から好かれるために、嫌われないために、人を喜ばせるために、人前で恥をかかないために常に他者の気持ちを想像しながら生きているのではないかと思うのですね。

例えば「こんなことをしたら〇〇君と仲良くなれるかな」というふうに考えたり、「こんな態度をとったら彼から嫌われてしまうかもしれない」というふうに考えたりなど誰もが人から好かれたり、嫌われることを避けるために人の気持ちを想像しながら生きているのではないかと思うのです。

そのため我々人間は常に他者の気持ちを想像しながら生きているのですが、大切なのはこの『他者の気持ちの想像の仕方』というのは本人の価値観によって大きく異なってくるということなのですね。

例えば自らの容姿が悪いことから強い劣等感に苛まれてしまっており、「自分のような容姿の悪い人間は誰からもバカにされる存在なんだ!」というふうに考えてしまっている男性がいるとしましょう。

この男性は『人間としての価値』が『容姿』によって決まってくるというふうに考えており、そのような経緯から「自分のような容姿の悪い人間は誰からもバカにされるんだ!」というふうに強い劣等感を感じてしまっているのですね。

そしてここで皆さんに分かってほしいのは、この男性はこのような価値観を持っていることから、この男性は他者に関して「誰もが自分を見下してくる存在なんだ!」というふうに考えてしまっているということなのです。

要はこの男性は『人間としての価値』が『容姿』によって決まってくるというふうに考えていることから、『容姿が整っている人間=価値がある人間』『容姿が整っていない人間=価値がない人間』というふうに考えてしまっているということなのですが、この男性はこのように考えていることから自分以外の人間に関してもまた「誰もが自分のことを見下してくるんだ!」というふうに思ってしまっているということなのですね。

そのため例えばこの男性は目の前に見ず知らずの女性がいると「容姿の悪い自分はバカにされるのではないだろうか?」「容姿が悪い俺は女性から悪口を言われるのではないだろうか?」などというふうに相手の気持ちを想像してしまうことになるのです。

実際に目の前にいる女性が自分に関してどのように考えているのか、正確なことは分からないのですが、それでもこの男性は目の前の女性からバカにされることが怖いことからこのように悪いほう悪いほうへと考えてしまっているのですね。

そしてこのように我々人間は誰もが他者の気持ちを“自分なりに”想像しながら生きているのですが、ここで皆さんに分かってほしいのは我々人間は“自分の価値観に沿っている人”を多数派として見なす傾向があるということなのです。

例えば先ほどの男性の例で考えると、実際に世の中には『容姿』によって『人間としての価値』が決まってくるというふうに考えている方などほとんどいないことだと思うのですが、それでもこのような価値観を持っている男性は他者を容姿によって見下すような人をどうしても『多数派』として考えてしまうことになるのですね。

そのため例えば10人中9人の方が「容姿が悪いからと言って人間としての価値がないなんてことはないでしょ!」「容姿が整っている人も整っていない人も人間としての価値は同じでしょ!」というふうに主張したとしても、残り1人が「ブサイクな人間には人間としての価値がないでしょ(笑)」とバカにしたように言うとこの男性は「やっぱり俺のような容姿の悪い人間は“誰からも”バカにされるんだ!」というふうに考えてしまうということなのです。

ここで皆さんに分かってほしいのは例え10人中9人、すなわち9割の方がこの男性の価値観とは真逆のことを主張しても、そのうちの1人、つまりは1割の人がこの男性の価値観通りの主張をするとこのたった1人の人間を『多数派』として考えてしまうということなのですね。

そのためこの男性は例え10人のうち9人からその価値観を否定されたとしても、たった1人が「いや、お前みたいな容姿の悪い人間は人間としての価値がない!」というふうに言うとその言葉を信じ、そしてこのたった1人の人間を『多数派』として捉えてしまうということなのです。

そしてこれが私が主張する「自分の価値観に沿っている人を『多数派』として考えてしまう」ということなのですね。

ここまでの話をまとめると我々人間はどれだけ親密な間柄であったとしても自分以外の人間の気持ちは分からないことから、常に他者の気持ちを想像しながら生きているということなのです。

そのため我々人間は常に人が「どう考えているのだろう?」というふうに気持ちを想像しながら生きているのですが、その想像は自分の価値観がベースになっているということなのですね。

そして我々人間は自分の価値観をベースに他者の気持ちを想像しているからこそ、自分の価値観に沿う人間を『多数派』として考えてしまうということなのです。

例えば「自分のような容姿の悪い人間は綺麗な女性と交際することができないんだ‥‥」というふうに考えている男性がいるとしましょう。

この男性は綺麗な女性とは容姿の整っている男性、すなわちイケメンな男性しか交際することができないというふうに考えており、自分のような容姿の悪い人間は決して綺麗な女性と交際することができないというふうに考えているのですね。

しかし世の中を見渡せば例え容姿が整っていなかろうとも綺麗な女性と交際している男性はたくさんおり、綺麗でありながらも恋愛において男性に容姿の良さは求めないという女性はたくさんいるのではないかと思うのです。

そのような経緯から考えるにこの男性の考え方は決して現実を正確に反映したものではないことだと思うのですが、それでもこの男性がこのように考えると実際に世界はその通りに見えるのですね。

なぜならこの男性の価値観に沿っている『面食い』な女性が圧倒的な『多数派』として見え、逆に決して面食いではない女性は『少数派』として映るからなのです。

例えばこの男性がある綺麗な女性と交際したいというふうに思っているものの、この女性は面食いであり女友達と「私は付き合うなら絶対にイケメンじゃないと無理だわ~」というふうに話していたとしましょう。

するとこの話を聞いた男性は「やっぱり綺麗な女性と交際することができるのはイケメンな男性だけなんだ!俺みたいなブサイクな人間は綺麗な女性と付き合うことができないんだ!」というふうにこの面食いな女性を『多数派』として考えてしまうことになるのですね。

実際にはこの男性が交際したいと思っていたこの綺麗な女性がたまたま面食いであったのに過ぎないのですが、それでもこの男性は「やっぱり綺麗な女性と交際することができるのはイケメンな男性だけなんだ!」というふうに『容姿の悪い人間=綺麗な女性と交際することができない』というふうに考えてしまうことになるのです。

それでは逆にある綺麗な女性がこの男性のもとにやってきて「好きです!付き合ってください!」というふうに頼んだとしましょう。

するとこの男性は例え綺麗な女性から交際を申し込まれたとしても、自分の価値観を否定することはなく「まぁこんな面食いじゃない女性もたまにはいるよね。だけどこんな綺麗なのに面食いじゃない女性はほとんどいないだろう‥‥」というふうに目の前の女性を『例外』『少数派』として考えることになるのです。

ここで皆さんに分かってほしいのはこの男性の目の前に2種類の女性がいたとしても、この男性は自分の価値観に沿う人を『多数派』として考え、逆に自分の価値観に沿わない人を『少数派』として考えることになるということなのですね。

そしてそのような経緯からこの男性の「自分のような容姿の悪い人間は綺麗な女性と交際することができないんだ‥‥」という価値観は例え現実を正確に反映しているものではなかったとしても、覆ることはなくこの男性の視点からは世界はこの男性の価値観通りに見えるということなのです。

まぁこのように我々人間は自分の価値観に沿っている人を『多数派』、自分の価値観に沿わない人を『少数派』として考える傾向があるのですが、ここまで来れば「自分のことを見下したりバカにしたりする人を少数派として捉える」という話しの内容も何となく分かったという方も多いのではないかと思うのですね。

私が思うに自分のことを見下したりバカにしたりする人を少数派として捉えるうえで最も重要なことは「世の中には自分のことを愛し大切にしてくれる人がたくさんいるんだ!」というふうに考えることなのではないかと思うのです。

これは言い換えれば他者を「信頼する」ということであり、他者を自分のことを愛し大切にしてくれる人であるというふうに信頼することが大切なのではないかと思うのですね。

逆に他者に対する信頼感がなく常に人から見下されバカにされているというふうに感じてしまっているという方の多くは、「自分を愛してくれる人なんていないんだ」「誰もが自分のことを見下してくるんだ」などというふうに考えてしまっているのではないかと思うのです。

そのような経緯から例え目の前の人1人からバカにされだけであったとしても「やっぱり誰もが自分のことをバカにしているんだ!」「やっぱり俺は誰からもバカにされる存在なんだ!」などというふうに考えてしまうことになるということなのですね。

大事なのは我々人間は自分の価値観に沿う人を多数派として考えてしまうからこそ、自分の価値観をより良いものにする、すなわち他者を信頼することが大切であるということなのです^^

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