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マックのポテト分の怒り

近所のマックはいつも忙しい。

僕はそこそこのマックファンで、手軽さもあって毎週のように通っている。
週末は特に混んでいて、家族連れやらウーバーイーツやら出前館やらがとめどなく訪れて、店内はさながら戦場の様相だ。
注文をうけるカウンターのすぐ後ろでは、ある店員が大量のドリンクやポテトを作っている。
その隣ではまた別の店員が、出来上がった品物を渡すために注文番号を叫ぶ。
その忙しさは映画、1917 命をかけた伝令のワンシーンのようだ。

そんな中落ち着いて食事などできるはずもないので、僕はいつも通りテイクアウトにする。
家に帰ってさあ食べようと袋を開けた時に気がついた。
やられた。
セットに付くはずのポテトが入っていないのだ。

ポテトに限らず、当該店舗で注文した物が揃っていなかったことは一度や二度のことではない。
これまで何度このような憂き目にあったか数えきれない。
アイスコーヒーを頼んだはずが、飲んでみたらコーラだった事だってある。
ミルクポーション入りのコーラ。
あれは強烈なアハ体験だった。

もちろん人的サービスである以上、ケアレスミスはつきものだ。
ましてやあの塹壕戦のような様相、無理もない。
だから僕は、これまで一度もクレームを言ったことはない。
気づく時は大抵、家に着いて商品を広げてからという事もあるが、ポテトがない悲しみや怒りよりも、単にめんどくさい気持ちの方が勝つのだ。

例えば店舗に電話して、ポテトが足りない事を伝えるとしよう。
あの戦場に突如として鳴り響く電話。
そもそも誰か出てくれるのだろうか。
今時マックに電話してくる人なんて少ないだろうから、電話機自体が事務所の奥に追いやられているかもしれない。
家族連れやウーバーがひしめく戦場で、懸命に動き回っている責任者に、果たして正しく伝令が伝わるかも疑問だ。
よしんばクレームが正当なものと受け取られたところで、今すぐマックのポテトが食べられるわけではない。
どうしたって取りに行くか、届けてもらうかしか方法はないのだ。
僕には食事を中断して、ポテトを取りに行く程の情熱はない。
届けてもらうとしたら、貴重な戦力である責任者が、たった一つのポテトのためにあの戦場を離れることになる。
そして玄関先に、捕虜のような顔をして立つのだ。
その姿を想像しただけで、申し訳なさもあるが、めんどくささに戦慄する。
そんな事ならポテトのことなど諦めて、ため息をつきながら家にあるじゃがりこでも食べればいいのだ。
結局その日も泣き寝入りした。


以前僕も、飲食店でバイトをしていた事がある。
そして同じようなミスも経験した。
注文を受けたラーメンセットの餃子を提供し忘れて、客がラーメンをほとんど食べ終わった頃に怒りだしたのだ。
ラーメンと餃子を同時に食べられなかったそのお怒りはごもっともだが、僕はそのまま一時間にわたりお叱りを受けた。
店内はすでに混雑していたが、僕のミスと客の怒りによって他の客の注文にも影響が出て、店内はあっという間に戦場へと化した。
当時時給730円で働いていた僕は、初めは真に申し訳なく感じ、しおらしく謝っていたが、しばらく経ってからはもう730円あげるから帰って欲しいな、とさえ思うようになっていた。

無事クレームが済んだ後、僕は先輩や社員の人に慰められた。
餃子で1時間怒った客は、今日あったちょっとした珍事として話のネタにされた。
みんなの優しさと、その時もらったダイドーの缶コーヒーの味、そしてこの事件自体が未だ忘れられない。

つまり僕がポテトクレームを入れた場合、その現象が逆の立場で起こり得る。

戦場で店員がざわめく。
あの人ポテト一つが入っていないだけでわざわざ取りに来たの?
ポテト一つを家まで届けさせるの?
怖い人...って具合に。

さらに恐ろしいのは、ミスした本人以外のサービス提供者側は、やれやれまためんどくさい暇人がなんか言っているくらいにしか思っていない事だ。
もちろんその場はみんな捕虜のような神妙な顔をするだろう。
だが時間が経過すればするほど、ミスした本人でさえも反省の気持ちはなくなり、その心の中はめんどくさいで一色になるのだ。
事が終わればバックヤードでは、同僚が缶コーヒーを持ってきて、ついてなかったね、どんまいなどと慰めることだろう。
ポテト一つであそこまで怒るなんて、あんな大人になりたくないよななどと話しているかもしれない。
最悪の場合、盗撮されてツイッターで世界に晒されることもありうる。
いつしか僕はポテトを食べられなかった不幸な客から、厄介で哀れなクレーマーへと変貌するのだ。
それも最寄駅のマックでだ。
恥の極みだ。

「馴れ初めはクレームで落ち込んでいた彼を慰めたことでした。」
「彼女が差し入れてくれたのがダイドーの缶コーヒーだったんです。その飾らない人柄に惹かれました。」
クレームがきっかけで店員同士が結ばれ、幸せになりましたとさ、なんて事になれば少しは怒った甲斐もあるというものだが、そんな事はあったとしても知り得ない。
哀れなクレーマーは恥ずかしくてもうその店には行けない。
遠くのマックに行くはめになる。
ああかなしいかな。
哀れなクレーマーは暗い部屋で布団に包まりながら呟く。
僕はただ、ポテトが食べたかっただけなんだ...。


つらつらと書き殴ったが、要は怒らない代わりに僕のことも怒らないでほしいのだ。
怒りの不戦協定。
僕はマックのポテトが入っていなくても、セットの餃子が来なくても怒らないタイプの人です。
あなたはどうですか?
同じですね!
では仲良くしましょう。

怒らない人は怒りの感情がないわけではないのは知っている。
発露しないだけで怒りは確実に存在はしていて、ただ別の方法で処理しているのだと思う。
怒りを人に向けた時、その不快は連鎖する。
バタフライ効果のように。
幼少期にいじめを受けた人間が、大人になってから悲惨な事件を引き起こすこともある。
ならば、怒らないという、不快を与えない連鎖もあっていいのではないだろうか。

僕は先週仕事で、言い訳のしようもない程のミスをした。
今その後処理に追われながら、合間にこんな事を書いている。
ああ、怒られたくないなあ。
せめてあの時のマックのポテト分だけでも、怒りを差し引いてもらえませんか。

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